人間が好きな人間が嫌い

 仕事中に暇すぎてTwitterのトレンドをみると、そこに個人名が載っていることが多すぎて辟易としてしまう。それは大抵、アイドルの名前だったり、有名人の名前だったりするのだけれど、そうであることを確認する過程で、信者のツイートが目に入ってきて、目が腐る。なんで僕はこんなに人を好いている人が嫌いなのかわからないのだが、どうにも特にきっかけや根拠なくそうであるので、そういう先天性の性質を持ったとしか言いようがない。

 きっと、その盲目さが信仰を思わせるからなのだろう。

 僕は尊敬する人を持たない。好きな監督や著者はいるが、それはその人が生み出す作品が好きなので合って、別にその人本人が好きというわけではない。サイン会やトークショーに行かないのは、それが理由だ。話を聞きたいと思うことはあれど、それは制作秘話などを聞きたいのであって、その人自身の何かを聞きたいわけではない。ならば、インタビューや記事で十分だからだ。思想や言葉が好きという人もいるが、別にその人本人が好きというわけではない。

 なぜならば、人が好きというのは、その人そのものを全て好く必要があると思っているからだ。そして、それは信仰に他ならない。ある部分だけが好きというのであれば、それはその人が好きとは言えないだろう。その人のある部分、才能や創作物などが好きなのだ。その声が好きだったり、性格が好きだったりしても、体型が好きではなかったり、思想が好きではないのなら、その人が好きだとは言えない。きっと、多くの人が、ある人を好きだと思っているだろうが、それは思い込みであって、その人の全てを許容できる人間は多くないはずだ。だから、たびたびアイドルに恋人がいて炎上したり、著名人の言動がまずくて騒ぎになったりする。本当にその人が好きであるならば、それらを盲目的に受け入れるべきだ。その、到底許しがたい行為ですらも、その人の一部なのだから。

 思うに、皆は軽薄なのだ。簡単に何かを好きになり、理想からそれれば、勝手に裏切られたと傷付くのだから。好きになる前にその本質を検討することはなく、ただ直感的に何かを期待し、それを押し付けていく。それが一対一の関係ならば、僕も特に嫌悪感は抱かない。それは夫婦、恋人、友人、親子、仲間といった多くの日常的な人間関係だ。一対一の期待の押し付け合いならば、それは契約と履行に近しい何かのようにも思うことができる。しかし、一対多となると、そのグロテスクさに吐き気がする。多数がその無邪気で歪な期待を一人に押し付けて、一人が多数からの承認を得るために自分すらも騙して利用しつくす。それが宗教でないとするならば、何と形容すればいいのか。

 僕はそういうものを嫌っている。もしかしたら、僕は少数派であると直感的に思い込んでいて、盲目的な集団というものを恐れているのかもしれない。いや、違うな。きっと、僕は僕自身というものを強く価値があると思い過ぎているから、それ以外の価値のないもの、つまり他人を皆、恐れているのだろう。彼らにとって僕の被害は一人の被害でしかないが、僕にとって僕の被害は世界の被害なのだから。彼我の差は永遠に埋まることがない。僕はそう思っているのだろう。物心ついた時から。残念なことに、理論的に考えた結果でさえも、同じものを指し示している。その差だけが真実だと。