「ジョーカー」に関して

 観てきました、「ジョーカー」。割とどういうスタンスかによって、感想が変わるタイプの映画であって、僕も何かを思ったというよりも、皆がどう感じているかの方が気になる作品だったけれど、簡単に感想を残して置こうと思う。

 もちろんネタバレを含むので注意して欲しい。時事性のある傑作だと思うので、出来れば映画館で観た方がいいかなと僕は思う。

 

 

 

 

 まず、ついにこれが2019年のジョーカーなんだな、と思った。主人公が一般人で何かの由来を持たないことが増えてきたのは、皆感じていることだと思う。スター・ウォーズとかね。それがついにヴィランにまで拡大したというか。今までのジョーカーって、そもそも計り知れないものを胸に抱えていたりとか、なにかの情熱なり執着なりが歪んでしまったりとか、そういうオリジンが多かったと個人的には感じているのだけれど、今回は脳に障害こそあれ、彼がジョーカーたり得るものとなってしまったのは、外部からの影響が強いんですよね。彼自身が特別なわけではなくて、むしろ普通にいる底辺の一人。殺人の対象自体は個人的な恨みのある人間であって、それも結構突発的にやっているわけだけれど、そこまで追い詰められたのは、社会との軋轢だったり、民衆からの無責任な称賛だったりによるというか。流されるヴィランというのがちょっと面白いなと個人的には思った。

 なんていうのだろうか、誰だって、そうなると思ったんだよね。もちろん、僕や世界中のみんながアーサーと入れ替わって、ああなるかといったら、ああはならないんだよ。僕が言っているのは、そうではなくて、皆がアーサーになったら、彼の脳で彼の人生で彼の性格で、あんな境遇になったら罪を犯すでしょ、というか。僕が犯罪者を責める人に対して思うことと同じなんだけれどさ。つまり、再現性が取れるなら、そこに自由意志なんてないんだから、それを責めるのはおかしくない? ってことで。まあ、これは実際にテーマにされていることだと思う。アーサーに悪さをしている人だって、確固たる意志で意地悪をしているわけじゃないしね。

 

 あと、主観的であるというテーマで善悪や殺人、コメディをまとめたのは上手いと思う。アメコミっていろんな人が造形しているから一貫性がなくて、芯となるテーマが存在するというよりは、こういう行動をするからジョーカーって呼ばれる、みたいに外から定義されがちだと前から思っていたのだけれど、そういうテンプレートになった要素をまとめてアイデンティティとして定義し直すっていうのは良い。好きだ。

 

 妻が言っていた感想で面白いなと思ったのは、とにかくつらくて、必要のない痛みまで負っているのがつらいというものだ。アーサーは始め、母親の言うことを信じていて、そのためにウェインを問い詰めるようなことまでする。それでわざわざ持ってしまった希望を踏みにじられるのだ。これは実際に丁寧に描写されていて、彼が希望としていたことごとくは、しらみつぶしに破壊されていく。ゆえに何も持たないと自覚してしまった無敵の人が生まれる。始めから何も持たない人は、持っていないことすら気付けない。持てると気付いてしまったから、持っていないことに気付くのだ。

 

 また、よく見た感想だと、この映画自体がジョーカーの供述であって、信憑性がなく、真偽入り交じっているというのがある。僕もそれにかなり賛成だ。色々と時系列とかがおかしいところもあるし、何より、最初の殺人を犯したところとかちょっと冷静すぎるような気がした。その前の彼は銃が暴発しただけで怯えているのであって、いくら色々と追い詰められたからと言ってああはなるのかな、という疑問。それよりも、ジョーカーとして成立した後の彼が、自身を取り繕うためにそう供述したと考えてもいいのではないだろうか。

 しかし、そうなると問題になるのが、ウェイン両親の殺害である。あのシーンだけはジョーカーは存在していない。そこで、僕は思ったのだけれど、アレは、あのシーンだけは確定的な現実として存在していることを示したかったのではないかと思った。つまり、ブルースは完全に不審者であるジョーカーにすら誠実に対応する姿を見せるなど、この作品でも数少ない、確実な善人である。その彼が、大事な両親を失って立ち尽くす……その現実だけは間違いないのだと言っているように思えてきたのだ。それ以外の被害者は、主にジョーカーに対してだけれど、危害を与えている人間が多いのだけれど、ブルースだけは単純にただ、悲劇に見舞われている。それを強調したいのかな、と。

 まあ、実際はそんなことまで考えてないか、僕が考えつかないような根拠が元になっているのだろうが……