「マッドマックス 怒りのデス・ロード」の序盤の感想

 n回目の「マッドマックス 怒りのデス・ロード」を観たが、この映画のオープニングは特筆すべきうまさがあるなと感じさせた。

 セットアップで用意すべき点は以下のようなものだ。

・この世界では資源が不足し、それをイモータン・ジョーが占領している。

・女たちはフェリオサと共にジョーから逃げる。

・マックスは捕らえられるがフェリオサと合流する。

・ニュクスは死にかけて、ジョーを妄信している。

 ざっと言えば、こんな感じだ。普通に考えると、マックスが捕まった後、自力で逃げ、その途中で女たちやフェリオサと合流し、共に逃げるというシークエンスになると思う。九割九分の脚本家がそれを選ぶと思う。セリフで、ジョーが資源を占有し、女たちを過酷な状況で囲われているというのを説明するのが目に浮かぶようだ。ゴタゴタとしたシーンになるだろう。しかし、それはセットアップを迅速にするために仕方ないと割り切るというわけだ。数多の凡作がそれを選ぶ。

 しかし、この作品はそうせず、血袋という概念を導入する。マックスはその血液に価値を見出されたがゆえに、戦場に連れ出させる。そこで、状況がリセットされ、初めてフェリオサと合流するというわけだ。普通、こんなことしますか?

 それでも、この設定は、この世界観に説得力を増させるし、クライマックスの解決の伏線にもなるし、何より、この世界特有の戦闘シーンを序盤に大量に見せながら、退屈させずにセットアップを完了させるための鍵となるのだからすごい。背景の描写や、最低限の話運びだけで、女たちがどのような状況にあるのかは、はっきりとわかる。人々の中に累積されている物語の類型を上手く使って、最低限の描写で最大の情報を伝えられている。

 これこそが、物語の技術だと思う。こういうレベルのものに、僕は触れていきたい。