機械仕掛けの世界

 本当に、現在の空気やインターネットに失望する感覚が理解できないが、よく見かける。僕は誰かや何かを責める気にならないせいかもしれない。誰かや民衆のせいで、誤った方向に進んでいるという風に捉えられないのだ。これは政治経済に興味がない理由にもつながっているのだが。つまり、僕は人間はあるべきように行動しているのであって、そこに干渉できないと諦めている。自由意志をそもそも認めていないのだから、そういう考えになってしまう。

 決定論的に全てが決まっているとは思っていない。僕や彼、彼女の脳内で賽は振られるだろう。しかし、それは歪な賽だ。しかも、それが振られ、出目に従って人間は動作する。その結果を褒めたり、責めたりできるだろうか。1が出た者には罪があり、6が出た者には強靭な精神が宿ると称賛できるとでも? あるいは、その脳内の賽が出来上がる工程に文句でも言うつもりだろうか。それとも、出目に対する処理に対して? それが構成される過程には、遺伝子によるランダム性と、あまりにも多数の要素があるとわかっているのに。それを責める気にはなれない。逆だったかもしれねぇ……となりはしないか。そのまま逆の過程を過ごし、物理的に逆であれば、それはその人そのものであり、再現性はあるのではないか。運良く、そうなった、ならなかったはあれ、本質的にそう起こりえたと証明さえできるように思える。

 また、人の行動はシステムが決めてしまう側面もある。たとえば、政治において、野党が文句ばかり言っていると文句を垂れている人がいるだろう。しかし、与党は様々な策を実行し、その成果によって評価させることがあるだろうが、野党にはそういった実行が制度上できず、評価が受けられないという問題がある。知事選では、よほど問題がない限り、成果を誇示できる現役が圧倒的に強いということがあるのと同じだ。これは別に、野党が悪いとか、野党の議員が悪いとかいうことではない。どんな政党でも、野党になればそうなってしまう。つまり、システムが悪いのだ。政治家が市民目線ではないと嘆く者もいるが、そういう人が当選しやすいシステムになっているだけだ。システムに反逆する人間を求めるのは間違っていると思わないのだろうか。

 こう並べてみると、根幹的に失望しているというか、諦観しているように思われてしまうのかもしれない。しかし、そうではない。僕はただ、事実をみているだけで、当たり前の結論なのだ。逆に、こうでない結論にたどり着いた人に聞きたい。その根拠を。どうして、そう思うのかを。