システムへの諦観

 なんか、有名人が騒いだだけで法案が引っ込むなんてと怒っている人がいた。民主主義の崩壊だとまで言っている人がいたが、むしろそれが多数決なのでは、と思う。専門家や当事者がどう思うかより、大多数やそれを代表するということになっている議員が決めるというシステムになっているのであって、それを怒るのは違うのではないかと。なんか、システムに逆らって、自分たちに都合よく動いてくれる人を前提としているみたいで違和感を抱く。フェイルセーフ的な思考が身についていないというか。

 思うに、僕は他の人より、大きなシステム、原則というものに対する評価が強いのか、諦観を抱いているのかもしれない。システムがそうなっているのなら、個々はそれに反逆できない。例外的な個体がいたとしても、大多数はシステムに倣ってしまう。僕が死に打ち勝てないと強く思っているのも、そこが関係しているように思える。僕という個体が例外的だと思えないのだ。僕は全ての人間と同じように死ぬ。僕は大多数の人間と同じように社会や世界を動かすことはできない。僕はほとんどの人間と同じようにシステムで規定された行動に則ってしまう。個人の意思よりも、物理法則を、統計を、構造を、信じてしまう。

 逆に皆は、どうにも個人の意思というものを万能だと思っている節があるように思える。逆境でも、意思が強ければ何とかなる。最底辺の人間でも、意思が強ければ犯罪に手を染めない。依存症になっていても、意思が強ければ乗り越えられる。死が目の前にあっても、意思が強ければ希望を失わない。意思を何だと思っているのだろうか。別次元から湧いてくる謎のエネルギーだと思っているのか。そういう信仰を持っている人ほど、意思や脳に対する研究を調べていないのだから、どうにも滑稽だ。信ずるということは、盲目さなのだと、僕は何度でも認識する。全て知っているのだと、斜に構えるような態度が正しいとは思わないが、何も知らないままに闇雲に死へ向かうよりはマシだと思ってしまう自分がいる。