責任と支持

 個々に責任を認めない、という考えは、拡張すると個々に自由意志を認めない、個々に十分な影響力を認めない、とも取れる。その結果として、僕は応援というコンテンツに何ら意味を見出していないのだと思う。(政治的にせよ、コンテンツ的にせよ)選挙であるとか、試合であるとか、そういうものが微塵も楽しくないのだ。余談だが、結果を見るのだけはとても楽しい。他人が、大衆がどういうものを好んでいて、どのようなものを望んでいるのかの答え合わせができるからだ。

 しかし、そのものに対しては、他人が勝ったらなんだよと常に思っているし、そんなに他人に依存することが怖くないのかな、とも思う。また、1対多という構造は、どちらに所属しようが論理的に地獄になると思っているので、その中に入りたいとは微塵も思わない。誰かを応援するというコンテンツは、大手を振って国民的な主要産業として成立しているが、僕にとってはあまりにも奇怪で歪なものに見える。なんというか、子供がウルトラマンを応援しているような、そんな純粋なものでなければ、成り立たないと思っている。

 逆に言えば、誰かを応援する人は、誰かに勇気や元気をもらったり、意思の強い力を信じている人たちなのだろうと思う。だから彼らは、自身を誰かに依存できるのだろう。それを環境によって自動的に決まる現象だとはとらえていないのだ。そんな考え方から見える景色に興味はあるが、自分がそうなろうとは思えない。