購買と消化に関して

 僕はよく、時間を無駄にしたことをくよくよと悔やむし、誰かに時間を吸われたと嫌な気持ちになることがある。一方で、無駄遣いをしてしまったことに関しては、あまり何とも思わない。僕はコンテンツの消化に焦点を合わせているから、そう思うのだと思った。

 本やゲームなどのコンテンツのボトルネックはなんだろうか。ほとんどの人が、時間や気力と答えるだろう。その値段自体は大したことがない。中古本だったら100円で買えるし、ストリーミングサービスに登録していれば、個々の映画の鑑賞料は実質無料だ。ならば、それを消化しようとする時間、消化しようとする気力が問題になるに決まっている。つまり、必要なのは、圧倒的な量の時間だ。消化自体に金銭は必要とされない。その金銭を得るために、時間は必要だが。

 しかし、僕にとって、この生活、あるいは現代日本で求められている労働量は本末転倒だと思っている。確かに労働は時間を金銭に変換できるが、明らかに必要以上を変換してしまっている。コンテンツの消化には時間が必要なのであって、金銭が必要なのではない。なのに、なぜか世界は購買を基準にしたトレードをしたがる。それが嫌なのだと思った。

 購買による快楽というものがよくわからない。機能が増えるならまだしも、それ以上を求めて、結局、購入品を死蔵している人の気持ちは特に。もし、自分が有効に活用していないのだとしたら、その所有権を保持したまま、世界のどこかに置かれているのとなにが違うのだろう。購入自体が快楽になってしまっているのかもしれないな。だとしたら、それは自傷、自殺のようなもので可哀想だと思う。