ゲームへの執着

 色々と考えたのだけれど、僕がゲームに執着し始めている理由は、幾つかのレイヤーに分けられている。

 

 まず、純粋ゲームと僕が呼ぶ、選択と結果についてのゲームに関してだが、これは好奇心が理由になっていると考えている。僕はパズルに関して、あまり興味を持っていない。もちろん、一定の面白さはあると思うが、純粋ゲームよりも興味がない。その理由を考えたのだけれど、パズルは製作者が答えを知っているから、だと思う。何を言ってるんだ、コイツは、と思うだろうけれど、要は製作者に答えを聞けばいいものを、わざわざ僕が考えて上げる必要はない、と思っているのだ。たとえば、限られたカードプールで最強のデッキを創る、というような話も、僕が調べなくても、他の多くの人々が考えてくれると思っているから、あまり興味がわかない。マジで何を言っているんだ、と思うのだけれど、これが僕の感覚なのだからしょうがない。他の人がやってくれることをわざわざ自分で解き明かそうと思わないのだ。

 次に、ゲーム制作というか、ゲームそのものの面白さに関して。これも本質的に言えば、上記と同じで、知的好奇心だ。どういうゲームが面白いのか、というのを強く知りたいと思っている。そして、上記から逆算されるように、僕はこの問題を、僕自身が解ける難度であり、僕以外の人が解いていない問いだと思っているらしいのだ。誰かが答えを知っている、あるいは、誰かが解いてくれる、と思ったのなら、僕はわざわざそれを考える気が起きない。つまり、やる気がある、ということはそういうことである。これは完全に感覚的なことだ。もちろん、それなりに根拠はあるのだろうが、最終的には感覚的なことだ。

 

 そして、どうして、誰かが答えを知っていると感じていることを僕がわざわざやりたがらないのか、と言えば、僕の時間は限られているからだ。無駄なことをしたくないからだ。コストが無駄にかかるからだ。そして、僕の時間に関する感覚は、死への恐怖によって定義づけられている。

 

 結論として、僕が僕のような行動をするのは、知的好奇心と、死への恐怖からである、ということが導き出される。まさに僕らしい結論であって、ここは終点だろう。そして、これらはホモ・サピエンスが共通して持ち、それゆえに発展してきた性質である。原始的な、物理的な性質にたどり着いたのだから、観念的にこれ以上分解することはできないだろう。証明完了。すっきりした。