動物愛護の定義

 動物は好きだが、動物愛護の考え方を持たないなと思った。実験動物も仕方がないと思うし、家畜も仕方がないと思う。なぜならば、愛護の対象とすべき動物と、そうでない動物の区別ができなくなり、キリがないと思ってしまうからだ。

 仮に、知性において愛護とそうでない対象を引くのであれば、それは人間の方へと牙をむいてしまう。知性のない人間は搾取対象としても良いのだろうか。仮に、非人間以外の動物で一線を画すとしても、その知能の基準はどのように設けるのだろうか。人間が主観的となって、人間に近い能力を基準にするのは傲慢ではないだろうか。どうして、知性で一線を引き、握力で一線を引かないのだろうか。そういう風に延々と考えてしまい、そのうちには、動物全てが愛護の対象になってしまうだろう。もし、そうなれば、どうして植物はそこに含まれないのか、菌類は、ウイルスは、という具合に対象が広がり、キリがない。

 なので、人間、ホモ・サピエンスなら愛護の対象とする、ぐらいが人間に最も適した枠だと思う。だから、犬とか猫とかの殺処分にも僕は反対しきれない。鼠は大量に殺されているのに、犬や猫を愛護の対象とする理由が、僕には思い浮かばないからだ。運の良いことに、ホモ・サピエンスは他の動物種との混血種が生まれないようだし(本当はそうじゃないのかもしれないが、学術的には認められていない……はず……)、近隣種も非常に遠く、ボノボチンパンジーぐらいだ。そういう幸運(というか、近隣種をホモ・サピエンスが殺しまくって混血しまくっただけだけど)に感謝しつつ、そこに基準を設けるのが、唯一、理性的な区分であると僕は思っている。

 アニマルライツを守る、なんていうのは、先進的にみえて、その実、感情的でしかないのだ。まあ、人類のエゴによって、他種の動物をなるべく心地よく生かす、という方向に進むのは良いと思う。ただ、それはエゴだから、大量に繁殖して邪魔なネズミは殺しまくるし、魚は乱獲するし、家畜は劣悪な環境で肉変換器になってもらうし、犬猫はまるで人間のように扱う。それでいいじゃないか。グロテスクな事実ではあるが、人間というのは、その程度の理性と共感性しか持たない。