葬式の印象

 母方の祖母が死んだ時のことを書いているかと思ったら、書いていなかったな。類は友を呼ぶというか、瀬戸口作品が好きな人には、ある種の傾向があるような気がするので、僕の経験を書こうと思った。

 一年ぐらい前だろうか、死んだので、葬式に出た。三回忌(?)か何かはコロナのせいでなくなったけれど、葬式の時はまだそうなっていなかったので。

 葬式に出ると、骨を拾うところで「死体泥棒」を思い出してしまうのは、瀬戸口ファンの宿命だろう。どうして、人々は皆、そこで泣くのだろうな。もうそこにいない、と実感してしまうからなのだろうか。僕は死体焼却中に、その場所に写真が立てかけられているのが、とてもシュールだと感じたぐらいだったが。今、焼かれているのは、この人、みたいに強調されている気がして。そこから現れた骨は、ただの骨なので、僕としては、逆に気持ちが落ち着いた。僕はあまり死体が好きではなく、骨の方がましだと思う。

 父方の祖父が5年前ぐらいに死んだ時にも思ったのだけれど、僕はかなり死体を見るのが苦手で、死体を視界に収めないように動くので、変に不審がられてしまう。死に顔を見るのを強制すんな。死体ハラスメントですよ、ホント。めちゃくちゃに損壊していたりしたら、逆に見られると思うのだよね。そこにはモノがあるだけで、人間という感じがしないだろうから。綺麗に死に化粧が施された死体というものがかなり苦手で、不気味の谷に入っているモノという風に感じてしまう。生きている人間とは明らかに違う一線が存在し、それを感じ取ってしまうのだろう。

 思えば、死ぬのが怖くなったのは、小学生の時分に母方の祖父が亡くなった時だったか。特に交流のない相手だったので、それ自体にはショックを受けなかったのだが、曖昧だった死という概念がはっきりとした事象に固まってしまった瞬間だった。それ以降、どうせ死ぬのに、何をすればよいのか、という問いに取り囲まれてしまって、無気力がデフォルトになってしまったように思える。今まで、価値のあると思っていたことに、何の意味もないと知ってしまって、何をすればいいのか、わからなくなってしまった。今では、折り合いが付いているけれど、解答を見つけた、というよりは、そもそも、価値がない状態が絶対的な事実である、ということを、様々な理論によって強固に証明したからこそ、逆に安定している、という感じだ。

 世間の人、死が怖くないんだろうな。だから、葬式なんかできるんだろうな。そんな風に思う。人が死んでも、そこに魂みたいなものを見ているし、天国か地獄かに行っているし、別に問題ないと思っているんだろうな。だから、葬式なんてもので満足できるんだろうな。そこには、卒倒するような事実しか存在しないというのに。彼女と同じように、僕はいつか死ぬんですよ。現象として再現性がなくなり、この意識も全く残らない。そう、君と同じようにね。