シーシュポスの岩

 社会に適合するのに、大事なのは価値観なのではないかと思い始めている。価値観さえ合っていれば、ちゃんと社会に尽くすための仕組みが出来上がっていると思う。もちろん、価値観が合っていても、社会に適した能力がないだとか、そんな理由で上手く適合できない人もいるだろう。しかし、適した価値観がなければ、この社会に溶け込むことはできない。なにより、労苦と報酬のバランスが成立しなくなってしまう。

 

 僕が驚くのは、意外と社会における仕事を苦に思っていない人間が多いということだ。もちろん、満員電車はつらく、上司との相性が悪いということはあったりするのだろうが、出世をしたり、ボーナスが出たり、客に褒められたりといったことをモチベーションに働くことができるようなのだ。その一瞬が素晴らしいと思えるのなら、我慢する価値があると思うらしい。確かに僕も、瀬戸口廉也が新作を出してくれたり、趣味の合うボードゲームの相手をしてくる人が毎晩遊びに来てくれるのなら、頑張ろうという気にもなるかもしれない。しかし、この社会で用意されている報酬というものが、とことん僕と相性が悪い。僕にとってはさほど価値がないどころか、むしろ嫌悪しているものまでが含まれている。それで頑張れというのは酷だろう。

 僕が驚くのは、意外と社会が要求することに応えることができない人間が多いということだ。毎日決まった時間に出社して、上司が求めていることを上手く解釈して成果物を期日までに提出する。そういった、いわゆる普通のことができている人間は思ったよりも少なく、大手企業でも半数ぐらいしかいない。僕が親近感を覚える人たちは、決まった時間に起きたり、早起きが苦手だったりする人が多いのだけれど、その点は僕にとって苦ではない。朝5時に起きて、通勤に3時間かかっていたこともあるが、別にそれ自体は問題ではなかった。仕事場の人間関係がぎくしゃくしていても苦ではなかったし、頭の悪い上司がいても、問題なく仕事ができた。そうではなくて、僕にとっては理屈に合わないことをしているのが、ただ、地獄のような苦しみを与えてくる。加えて退屈さが、死ぬほど苦手なんだ。それが致命的に正社員の仕事というシステムとかみ合っていない。だから、本当に嫌で、うんざりしてしまう。

 

 こんな風だから、僕は仕事を辞めるたびに驚かれているのだろう。毎朝ちゃんと仕事場についていて、成果物は期日以内に提出し、それに対して十分な報酬を与えられていると彼らは思っているから。確かに、客観的に観察すればその通りだと思う。でも、主観的には違う。僕は社会が課題としていることを特に感慨もなくクリアすることはできるが、社会が無視していることをわざわざ直視して謎の苦しみを感じているし、飴として与えられたものは無味乾燥どころか苦手だったりして、僕が本当に欲しいものは一切、与えられることはない。僕の率直な感想を言わせてもらえば、社会は地獄で、賽の河原以外の何物でもない。