かっこつけに関して

 妻と話していて気付いたのだけれど、僕には許容できるかっこつけと、許容できないかっこつけがある。それは、自分がなりたい自分になるためのかっこつけと、他人から見られたい自分になるためのかっこつけだ。この両者にはかなりの隔たりがあると感じている。この違いを炙り出すのは簡単で、自分しかいない世界にそいつを置いてみればいい。

 たとえば、自分以外の人間が消えた理想郷、自分以外が存在しない無人島、全く外に出る必要のない部屋、そんな状況に置かれていても、かっこつけているのならば、それは前者だ。なぜならば、自分がそうなりたいという気持ちに、そして、それを成すことに環境は関係ないからだ。僕はこっちのかっこつけをしている人間は好きで、尊敬すらしている。理想の自分がいるということは、とても素晴らしいことだと思うのだ。

 一方で、そうなれば何もしなくなるというのなら、後者ということになる。僕はこういう人間に対しては生理的な嫌悪感を覚える。その自意識過剰さが気持ち悪いなというのが率直な感想ではあるのだが、論理的に考えて、他者からの視点という客観的な視点には意味がないと考えているからだ。どうせ、他者は死ぬし、世界は凍る。なのに、なぜ、他者からの視線を基準にしなければならないのか。理由が存在しないと思う。自分が存在する限り、自分は存在するのだから、自分が自分をどう見ているのか、というのを気にするというのは、主観的な世界なので、理屈が通ると思っているのだがどうだろうか。

 やっぱり、他者とか社会とか宗教とか、そういう外からの何かを必要としている人間が苦手なんだろうな。もちろん、その方が社会で絶対に上手く行くし、進化的にもそういう人間の方が多いことはわかっているのだけれど、それゆえに自分で何も考えていないように見えてしまって。