どうでもいいという感覚に関して

 この間、ふと思い出したことがあった。実験の結果を上司などに見せている時に、あまりにも自明なことを説明しようとし、しかし、彼らの前提が変なふうにマインドセットされているため、なかなか理解ができないようだった。そこで、こちらはその前提の勘違いを一つずつ説いていったのだけれど、その目的がイマイチ理解出来ていないことはこちらにもはっきりわかった。ああ、もうどうでもいいや。勝手に検討して、僕と同じ結論に後で辿り着いてくれ。わざわざ、そちらに合わせて僕が手取り足取り教える必要はないじゃないか。そんな感情が巡った時に、懐かしいものだな、と思った。

 思えば、物心ついた時から、そんな感情ばかり抱いていた。両親や先生、同級生といった存在に、日常の些細なことを問うと、とんちんかんな回答ばかりが返ってきた。彼らは質問の意味を理解していないとわかるまで時間はかからなかった。あるいは、日常の問いやテストの解法を答えると、理解できないようで別の解釈をし始めることが多かった。そのたびに、僕は、ああ、真意を伝えるのは面倒だな。どうしてそこまでして、こいつらに教えてやらなければならないのだろうと思っていた。小学生が大人に対してそう思っているのだから、ずいぶん生意気なガキだ。それは勘違いも含めた傲慢であったことは間違いないのだが、そのどうにもならない、伝えられない、根本的に断絶している、という生々しい感情だけは未だに引きずって生きているのだと思い出してしまった。逆に、妻とはこういうことがあまり起こらないので、彼女とばかり話しているとそういった感情を忘れてしまいがちだ。

 なんかもう無理なんだろうな。この脳に巣くった感情をなくすことはできないのだろう。この先も僕は一生、お前とはわかり合えないから、もう興味はないよ、好きにしてくれ、どうでもいいと思いながら生きていくのだろう。いや、相互不理解であることを認識せずに、わかってもらいたいなどと喚いて生きていくよりはマシなのだろうが。