相互不理解と創作

 人々は相互不理解の元に生きている。そういう前提があるから、僕は自分の考えていることが、正確に、相手へ届いているかを重要視してしまう。ゆえに、英語を始めとして、母国語ですら不自由を覚える現状を好ましく思っていない。言語は絶対ではないが、概念を伝える方法としては、素晴らしいものの一つだから。

 そもそもを考えれば、言語とか概念とかを共有できること自体が奇跡だと言える。だって、生まれて来た国が異なり、環境が異なるのに、同じ作品を観て、同じ受け取り方をして、同じ感情を呼び起こすなんてことは、あり得ないとしか言い様がない。もし、僕たちが、一部の人が未だ信じているように、本当に精神的な、魂的な存在だとしたら。実際、そうでないから、僕たちは言語のようなあまりにも貧弱な手段で、概念を伝えることが出来る。DNAとそれに伴う発生がほぼ完全に同一であり、その物理的前提がそのまま精神的な前提であるがゆえ、ほぼ同一の精神構造を持っているのだ。話が成立するということ自体が、人間というものの精神性が物理的に依存していることの証左に他ならない。

 だからこそ、僕はその精神的な手段を使って、感情を、概念を再現することに興味を抱いている。それはシステムであり、シナリオでもあるのだ。