自分本位

 自分のために文章を書いている。僕がやることはどこまでも自分のためで、誰かのために行動することはない。誰かに奉仕することが快感であることは知っている。数多の人が誰かのために生きている。それは楽だ。遺伝子に組み込まれた快楽の対象だ。でも、僕はそれを好まない。一方で、知識やひらめきによる快感は肯定している。矛盾している。両者は同じく本能による進化に有利な性質というだけなのに。しかし、僕は後天的な知識から、後者に重きを置いている。同時に、僕は他者への奉仕によって得られる快感がおそらく小さい。主観的なものなので、一生比較することはできないだろうが、他者が他者のために行動する際のハードルと、僕が他者のために行うそれを比べると、明らかに他者の方が低く感じる。思うに、僕はそういう人間なのだろう。自分本位なのだ。しかし、それは同時に自分の首を絞めている。自分に寄っているので、自身の死を乗り越えることが必ずできないのだ。僕は必ず死ぬ。だから、何もかもに意味はない。延々にそう言っている。延々に悩んでいる。どうしたら、満足できるのだろうか。何をやっても、満たされない感覚だけが残る。ほとんどの場合、茶番を終えた後のような脱力感だけが残り、ただ生きる気力が吸い取られる。傑作に触れられた時だけ、生きていて良かったと、感情が、快楽回路がバグって涙を流すほどに感動する。だが、傑作だけを吸って生きていくことなどできない。生きるためにはくだらないことを山のようにしなくてはいけないし、世間で話題になっている作品も、ほとんどはその域に達しない作品だ。どうすればいいのか、わからない。