団結性VS孤立性

 妻がテレビを観ていて、なんか違うんだよな、と呟いた。みれば、コロナ禍における取り組みのような特集をしていて、高校生が地元のためにとフェイスガードを作っていたみたいだった。そこで、アナウンサーは、非常時に社会の繋がりが強化できていいですね、というような類のことを言っていた。何が違うのかと妻に問うと、そうではなく、もっと個で生きていけるようにして欲しいと続けた。確かに僕もそう思う。団結よりも、孤立に力を入れている。

 個が確立した状態で、互いが助け合うとして欲しい。善意から来るものであっても、団結というのは、それぞれが持つ固有の特徴や強みですら削って、共通の箇所だけで戦っていこうというものだから、息苦しいし、面倒だ。他者と共通範囲が広い人間は、そういうのが楽しいのだろう。あるいは、ある特定の範囲の人となら、共通できる範囲が大きい人は、そういう限られた場所でコミュニティを作って、それに属するのだろう。価値観が違い過ぎると、そういう場所ですら、共通範囲を持てなくなってしまう。必然的に孤立する。それ自体は全く問題がないのに、孤立していることを負の状態だとみなす人たちがいて、無理やり組み込もうとするから、障害が生まれてしまう。何とか、皆が孤立し続けられる社会でいられれば良いのだろうが。しかし、そんなに成熟した社会がここ十年などで生まれる気もしない。しばらくは皆、協力を、団結を、と言い続ける社会が続くのだろう。うんざりすることに。

 もう、ああいう風には思えないんだろうな、と妻が呟いて、その話は終わった。そういうことなのだろう。僕たちと世間一般というのはどんどんとずれ続けていって、その溝は大きくなるばかりだ。そうやって、ある段階まで来た時に、僕たちの人生は終わる。