集団に関して

 phaさんが出ている「ザ・ノンフィクション」の前編を観た。思ったのは、僕はこういうところにはいられないだろうなぁと言うことだ。シェアハウスという小さい社会にすら、僕は入っていけないと思う。一人でいたいという気持ちが先行してしまうだろう。

 一般社会と言っていいのかな、まあなんか普通の会社とか普通の家庭を思い浮かべればいいけれど、そういうところに適合できない人間はそれなりにいる。そういう人の中でも、社会を必要としている人間はいて、そういう人が別のコミュニティを作って、そこに住むようになるのだと思った。それはシェアハウスだし、サークルだし、遊び友達だし、暴力団だし、暴走族だし、教団だし、まあ、いろいろだ。そういう人は、結局、社会に生きている人たちだから、自分でも入っていけるルールのある集団へと辿り着き、そこがいいと思っているのだ。

 僕はそうではなくて、単純にそういう枠組み自体を無くして、集団から離れたい。離れて、個々が確固たる立場を持って、その上で共にやりたいことをする時に集まり、必要がある時は力や知恵を貸し合う、というような、ある意味で都合のいい関係が維持出来ればいいと思う。昔はそういうことは出来なかっただろうけれど、技術は進み、思想も成熟してきたのだから、本当はそういう関わり方が出来ると思うのだ。

 完全に感性が合うなんてあり得ないし、相互理解なんて甚だ不可能だとわかっている。なのに、集団を作り、群れを成すということはそのかみ合わない部分を捨てていく、抑えていく必要が生まれる。個体数が多いほど、共通部分はどんどんと減っていき、本来の強みや個性を発揮することは出来なくなるだろう。だから、個と個があるだけという状態が好ましいと思う。

 世界でも、ワーキンググループのような考え方が進んできている。会社に勤めて、何かを成すのではなく、あるプロジェクトがあり、それに必要な人物をフリーランスを中心にして集め、目的が終わったら解散するという流れの仕事だ。本来は、それが正しいのだと思う。仕事ではなく、趣味や個人の交流に関しても。けれど、今までは技術的に不可能だった。今は違う。必要なのは、思想の転換だけだ。集団を維持しようとすれば、コストはかかり、目的は達成されたはずなのに、新しいものを用意しなければならず、もはや機能しないメンバーが残っていたりする。そうではなく、適時、必要なメンバーを必要な時だけ、必要な分、確保する。それだけが出来ればいいと思う。映画の撮影みたいに、エンターテイメントの部分では一部、実行出来ているのだし。