創作物はエンターテイメント学における実験であり、論文である

 昔から、新規性のない創作物が嫌いだった。既存のものの組み合わせであったり、偉大な作品から引き継ぐ要素があるのは仕方がない。しかし、コアとなるものが、他の何かそのもので、フレーバーだけ変えたようなものが嫌いなのだ。どうしてかということを考えると、僕は創作物を一種の論文のようなものだと考えているとわかった。

 

 科学が世界の真理に近づくべく、研究しているように、僕は創作物というのは、最高に面白いものに近づくように創られていると思っている節がある。もちろん、そうでない作品も多いということはわかっているのだが。だから、僕は美術品というよりも、工業製品のような考え方をしているのだろう。少しでも面白くなるように、先行研究を引用したり、それにインスピレーションを刺激されたり、というのは、一般的なことだし、むしろ必要なことだと思う。引用のない研究なんて存在しない。しかし、同時に、その論文に新規性が全くない場合、それは査読でリジェクトされてしまうだろう。僕の感覚としても同じなのだ。例えば、Aという作品にはBという欠点があったので、克服しました、というような、あるいは、Cという手法をDにも適用してみました、というようなものでもいい。模倣によるものだとしても、そのデザインに新規性のある領域があって、研究が前進するものでなくてはならない。そんな風に考えているのだろう。なぜかはわからないが、そう思うからとしか今は言うことができない。ゆえに、フレーバーを変えるだけで新規性がなく、ただの集金のために作られたゲームや作品に関して、僕は憎悪に近い感覚を持っている。

 改めて文字に起こしてみると、完全に変なことだな、これ。どうして、そんな風に思い、執着するのか、自分でもよくわからない。わからないが、執着しているのだから、大事なことなのだろう。その気持ちを大事にしておこう。今のところは。