意識の焦点

 認識のフォーカスと呼べるものが存在していると思う。

 最も、この現代社会を上手く生きられるのは、少し未来か、もう少し先の未来を見ている人々だろう。彼らは、自分の将来や子孫の生活と言ったところにフォーカスして生きていくことが出来る。彼らにとって、現状の苦しさは未来における安寧の代償だし、遠い未来に起きる厄災は、実感のないようなことに思えているはずだ。だから、普通に生活が出来る。社会の向いている方向と、自分が向いている方向が同じだから。

 妻は、今にフォーカスしている。どんな予定があっても、今眠いのが優先される。今つらいのが尾を引く。今楽しいことをやっているので面白い。彼女のような人間には、好きなものを与えまくって、周囲をそれで囲んでやるといいと思ってきた。そうすると、その目の前のものに目が行くものだから、それで幸せなのだ。遠い先にあるはずの破滅や死は、実感の伴わないものとして、何となくの恐怖感を与えるに留まる。

 僕は、未来にフォーカスしている。結果と言ってもいいかもしれない。だから、人間は皆死んでしまうのだの、人類は全滅するだの、宇宙が冷えてしまうのだの、と叫んで、故に意味が無く、怖いと感じてしまう。本当は馬鹿馬鹿しくて、なんの役にも立たないとわかっているのに、今の感情に水を差してしまう。それも、どうせ、無意味なことなのだと。自分のやっていることに、逐一、意味がないと囁かれる人生を想像して欲しい。人によるのかもしれないが、僕にとっては地獄に近い。リアルな賽の河原だ。その苦しみを、昔の人だって、理解していた。こういう人にとっては、好きなものを増やすよりも、嫌いなものを減らす方がいいのではないかと思っている。なぜなら、嫌いなものがある以上、散漫な意識は必ずそこをなぞってしまい、大事な今という瞬間を台無しにしてしまうからだ。

 にしても、どうすればいいのだろうね? 僕の悩みなんてものは、一切全て、無限に生きられたら、全て叶うんですよ。仕事だって、僕のこの有限な時間が、僕にとっての選択肢がない時間に変換されてしまうのが苦痛なのであって、無限に時間があれば、その一部を他人に譲渡する気にもなる。でも、不老不死には必ずなれない。原理的に不可能なんだ。僕は出来る限りの思考実験を行い、ただ、カレラン提督のようなエイリアンや異世界人が強力な科学技術を持って、僕の元に現れる可能性だけを頼りに生きていこうとしていたことがあるけれど、今の所感では、本質的に無理だと思っている。嗚呼、どうやって、生きて行ければいいのだろう! どうやって生きたって、死んでしまうと言うのに!