主観世界と客観世界の断絶

 二つの事実が存在する。

 例えば、僕はよく幻聴で踏切の音を聞く。なんともない日常では、唐突にそれが聞こえてきても幻聴だと断言できるのだけれど、最寄り駅に向かっている時とか、しかも、それがここで踏切の音が聞こえたら走らないと間に合わないような場所で聞こえた時などは、とても混乱してしまう。この音は、本物なのだろうか。しかし、どうやっても、それが物理現象として存在している音なのか、僕だけが認識している脳で生まれた音なのか、区別することはできない。当たり前だ。おそらく、脳内で同じシナプスが反応しているのだから。そこから帰納的にどちらであるかを求めることはできない。

 全てにこれと同じことが言える。あらゆるものは物理現象として存在しているし、存在していなければ存在していないのだが、結局のところ、僕という現象は僕の脳を基盤とした現象なのであって、そこにある情報だけを頼りにしている。だから、何が客観的な事実であるのか、わからないことがある。例えば、名前は忘れてしまったがある病気があって、それは知っている人の顔でも違和感を覚え、他人だと思ってしまうという病気だ。何十年も一緒にいる家族なのに、脳が違和感を抱くせいで、他人が家族に成りすましていると思い、陰謀論を疑い、信じることができなくなってしまうというものだ。脳が誤作動を起こしている。しかし、それを教えられたところでどうなるというのだろうか。きっと、当事者は、それ自体もまた陰謀の一部であるように感じられてしまうだろう。だって、脳がそうなっているのだから。つまり、これらこそが、主観と客観の断絶なのだ。自分の脳における事実と、物理世界の外環境における事実というべきかも知れない。それは両者ともに物理的な事実であり、それ故に救いようがないものだ。

 僕がこの人生において根幹的に抱いている諦観じみた無気力さ、虚無さの主因の一つがこれだ。現実がどうであろうと、結局は自分の脳が、脳を含めた物理的なシステムが、どうなっているかによって、僕の現実は決まってしまう。合理的な事実よりも、僕の肉体によって定められた事実が優先されてしまう。だから、何もかも仕方ないと思わざるを得ない。あるいは、そう思ってしまうことすらも、この事実に納得してしまうことすらも、僕の脳がそういう仕組みになっているのだから、仕方ないのだ。僕たちにできることはない。僕たちの意識というものは、ただの苦しみの、恐怖の、悲しみの、喜びの、あらゆる感情と現象の傍観者でしかない。制御感など、抱けるはずがない。物理的な事実を知っているならば。