物語のプロトコルに関して

 どうして、物語が面白く感じるのか、いろいろと考えていた。地球上のあらゆる人間が文化的な背景が異なるにもかかわらず、かなり広い範囲で皆が面白く思っているわけだから、それなりの理由があるはずなのだ。

 僕は、それを物理法則を見出す能力と等しいものだと思っている。

 まず、物語とは何だろうか。たとえば、ボタンを押せば単語が書き込まれるタイプライターの上で猫が踊っているとして、それは物語になり得るだろうか。偶然の一致がなければ、それを物語と呼ぶものはいないようなものが創られるだろう。ならば、物語とは、アトランダムとは真逆にあるものだ。つまり、因果関係、法則性を想起するものだ。考えてもらいたい。確かにナンセンス系と呼ばれる小説もあるが、基本的には因果関係の崩壊した作品は、物語というより芸術だろう。

 つまり、僕は思った。この世界の現象を系列立てて考えるために物語を創り出す性質が生まれていると。パブロフの犬のような簡単な条件付けは下等生物でもできる。しかし、その世界は物理法則に支配されているのだから、一件関連が見えない事象にも隠された同じ原因が元になっているものがある。つまり、人間はそれを理解できるようになったのだ。それは、電気刺激によって動かされた手を、何か理由を付けてしまうのと同じだ。吊り橋効果のようなものだ。人間は、物語を創ってしまう。そうして、世界を理解するのだ。

 だから、世界を記述するような物語、つまり神話をほとんど全ての文化が持つ。ゆえに、神話は類型を持つ。それは人間が物語モジュールを使用して、世界を解明しようとしたさいに現れる類型だから。

 物語が好きな人間は、この世界にいち早く適応し、多くの子孫を残したことだろう。ゆえに、人間は物語が好きなのである。という仮説を立てた。

 

 だから、人間が物語好きなのは自明なことであって、きっと、僕がそれに入れ込むのは、食欲や承認欲求といった別の欲望の相対的な度合いが低いせいなのだろう。自覚はしている。運動や酒、煙草といった他の要素であまり快楽が得られない人間であることを。物語は最高だ。