混沌

 混沌としている状況とかが結構好きで、どうしてなのだろう、と考えたのだけれど、個人主義の結果としてそうなっているのではないか、と思った。

 

 秩序だっているということは、その規則なり、リーダーなりがいて、それに合わせて物事が決まっている、という状況だろう。昔から、あまりそういう状況が好きではなく、それぞれがそれぞれやりたいようにやっている、という状況が好きだった。

 何か集団で動いている時には、集団のために個人が犠牲になることがある。しかし、集団というものは実体がない。集団そのものの利益が、最終的に個人に還元すればよい方で、実際には意味もない搾取が発生することがある。この搾取というものもあまり好きではない。

 互助的な仕組みは必要だと思うが、それはむしろ、個人が個人たるべく存在すべきである、という考え方に近い。

 

 結果として、個人主義であり、混沌主義者ということになるのだろう。自由たれ。多様性を許容せよ。アナーキストであれ。

オプション

 家を買うに当たって、死ぬほど色んなことを決めなくちゃいけないのだけれど、結果として、色んなオプションを切っているな、と思った。パートナーはむしろ、それがあったらよいと感じてしまうらしいが、自分にとっては無駄で、コストに見合わないと感じることの方が圧倒的に多い。

 グレードそのものはそれなりのものにするのはあまり抵抗がない。むしろ、それが本機能を高めることになるのだから。必要な機能のためにも一定のコストを支払う。ただ、なんかちょっと便利になる、ぐらいのオプションはほとんど導入していない。

 シンプルさが好き、というわけではないのだが、無駄なもの、本質がないものが好きではない、という嫌悪感によって、そうなっているような気がする。

 あるいは、報酬系が弱いからかもしれない。昔から、あまり期待感みたいなものをあまり強く持てなくて、興味がないものに対してはそれが強い。ギャンブルのようなものに一切魅力を感じたことがないのもこのせいだろう。未来に対する報酬系の働きが弱い。

 必要なものを必要な分だけ欲しいんだよな。思えば、ソシャゲで無料石を天井分まで溜められるのを近い性質なのかもしれないな。欲しいものとなくてもよいものがしっかりと分かれている。興味があるものと興味がないものがしっかりと分かれている。それが良い性質か、悪い性質かは別として。

自己循環

 最近、メンタルが強いと言われることが増えた。確かに、あまり意識はしていないが、周りを見るとメンタルが弱いと思うので、相対的に強いのだろう。どうしてか、と問われたのだが、答えは単純で、周りの人は自分のことを気にしていない、と思っているからだと思う。どうせ見てないし、見てたとしても忘れるだろ、と思っているのだ。

 

 さらに、どうして、それを思うのか、ということを考えてみると、自分があまり周囲のことを気にしていないから、ということに尽きるのだと思う。気遣いはできる人間だとは思うし、困っている人がいたらすぐに助けには入るが、人を過度に重んじたりはしない。あくまで、自分は自分だし、他人は他人だと思うからだ。また、そもそもあまり他人に興味がなく、自分自身に興味がある。

 

 そういった部分があり、メンタルが保たれているだろう。しかし、これは良いことなのか、悪いことなのだろうか。周囲の目を気にしすぎて破滅に向かう人を良く見るし、そういう部分に共感できないのは利点だと思うが、それゆえに努力を続けて、達成感を得られている人々をみると、寂しい気持ちになるのも事実だ。自分だけのためにそれを行い、自分だけがそれを評価する、ということを繰り返しているのだから。良くも悪くも自己循環だけで生きていけるのだろう。

思えば遠くに来たものだ

 この間、知り合いの方と話をしている時に、話題となった内容に関して、昔、そういう意図で製品を開発していて~という話になった。そう、そして、僕はそういう意図でその製品が開発されたことを知っていたのだ。なぜかと言えば、その製品の発売記念イベントに参加したからである。

 その時、その製品のプロデューサーとデザイナーが来ていて、もちろん、そういった場に足を運ぶぐらいだから、両者ともに憧れていた。色々と質問をしたし、その時の話は興味深く聞いた。そして、今や、両者ともに知り合いであり、共同で物事に取り組んだこともある、という関係になっていることにふと気付いた。

 まだその時から数年しか経っていないのだが、置かれている立場は大きく異なるのだ。まあ、それは単に幸運だっただけなので、思いあがってはいけないが。まるでわらしべ長者のように、小さい所から始めて、なんか変な形に連鎖して、かなり良い繋がりが得られたな、という確信がある。

 今も大事にしておきたい関係は、なんというか、基本的に好きな作品に対して、呟いていたり、感想をまとめたりしているところから繋がっているんだよね。パートナーとも、互いに好きな作品が同じであり、ひょんなことから一緒に見に行くことになったというのがきっかけだし。好きな作品が近いということは、単純に価値観やらなんやらが近いことが多いから、なんか上手くいきやすいんだろうな。

 小さなことでも始めてみることの大事さを実感する。ただ、それだけでも続けていればなんか良い感じに上手いことなる。変になにかを意識せず、なにかを得ようとはせず、ただ続ければいい。待て、しかして希望せよ。

興味の有無

 興味を持っている、持っていないの差が激しいと言われる。それは人間に対してもそうで、興味のない人間に対しては扱いがあまりにもぞんざいになるらしく、よく注意される。そもそも、話すことがなくなるレベルで断絶的になることが多い。僕にとってみれば、すでに僕にとっての価値がないと判断した人間に対し、何かしらのコストをかけるのは嫌なので、そうなってしまうだけなのだが。

 ただ、問題になるかもしれない、と言われたのは、そういう態度を取る一方で、ちゃんと興味を持っている人々に対しては、丁寧に対応して、尊敬した動きを見せることで、媚を売っているように外部からは見える、ということだ。当然ながら、しっかりとした考えを持っていたり、それなりに知見の広い人は、それなりの立場にいることが多い。もちろん、その地位が虚栄であることも多いのだが、実体も伴っていることの方が多いだろう。そうなると、自然と僕が一定の関心を持つ人は、一定の地位にいることになってしまう。それでは、媚を売っていると思われても仕方がない。

 もちろん、よく観察していれば、地位と実力に差異があるような人に対して、僕がどのように接するかで、その真意は理解できるだろう。しかし、そういうことを判断できない人こそ、僕のことを蔑視すると思われる。

 まあ、別にいいんだけれど。この程度のこともわからない人に、僕が関心を持つとは思えず、つまり、そういう人は無視するに限るのだから。

 それにしても、本当にがっかりするんだよな。それなりの人が集まるような場所に行っても、そもそも、基本的な知見すらなく、何も考えていなかったり、自身に都合よく物事を考えている人ばかりで辟易する。

他の人

 フォローしている人の友人が書いたブログが公開されており、それを読むとその人の半生が綴られていた。なんというか、それなりに波乱万丈であり、しかし、それが人生だ、というようなリアクションの方が大きくて、驚いた。

 そういえば、昔から僕と親しくなるような人は、ほぼ確実に家族関係などに問題を抱えていて、皆、苦労しているんだな、と思ったことを思い出した。妻ですら、そういう部分がある。まあ、そういう問題がある人たちだからこそ、という部分がないと、あまり僕と気が合わないのかもしれない。

 翻って、自分自身は、というと、それはもちろん、年頃にはそれ相応悩みなどはあったが、一般的なレベルで、家族関係も昔から良好である。良すぎるということもないし、悪すぎる、ということもない。順当に評価・感謝をしており、相当に蔑視し、憎んでいる。今のところ、大きな問題はない。

 皆、何かを追い求めたり、何かに責め立てられて、何かをやっているんだなぁ、と思った。だから、あんなに頑張ったり、深刻そうにしているのだろうか。僕には特に何もない。ただ、何もかもを持て余している感覚がある。

 思うに僕の人生はあまりにも平凡で退屈だ。

メタフィクションについて

 広義のメタフィクションについて、つまり、メタ要素を作品に取り入れる長所と短所について考えてみたんだけれど、結局のところ、それはメタなレイヤー、つまり、作品外の要素を取り入れられる、というところに収束すると思った。

 

 つまり、どういうことかというと、作品というのは、制限がある、象徴化されている、単純化されている、ということなのだ。現実というのは、無限に影響が連なっていて、過剰に複雑だ。遠方の蝶の羽ばたきが竜巻を生むような複雑系で、人類が扱える範疇を超えた複雑さがある。でも、人間はそれを部分的にでも、解析することで、生きながらえ、発展した種族だ。だから、物語の力を借りる。稲妻という複雑な現象を、雷の神の怒り、という単純な現象に落とし込んだように、現代でも、物語は単純だ。

 現実の人間のように複雑な信条を持ち、あらゆる面で一貫性のない行動をするようなキャラクターを人々は望んでいない。現実の因果関係のように、意味不明に無作為に起こるちょっとしたことが過剰なまでに影響力を与えるようなストーリーを人々は望んでいない。人一人の力があまりにも少なすぎて、社会に何の影響も与えず、それ自体が特別なことではないと自覚するシナリオを人々は望んでいない。

 それが達成できるのは、物語が『制限』されているからだ。

 

 しかし、同時に、それは限界を生む。

 銃が居間に置かれているなら、それは発射されなければならない。意味深な台詞には何らかの裏がある。一見無意味にみえる行動にも、伏線が張り巡らされている。作中に登場する要素を勘案すれば、部隊が全滅するのなら、それは全滅してしまう。ヒーローは一度死んでから復活し、世界を救う。物語は物語であることを止められず、限界を知る。そして、紋切り型になり、人々は見飽きてしまう。

 人々は我儘で、期待を裏切って欲しくないが、期待を上回って欲しい。

 そこで必要になるのが、メタ構造だ。作品の外を、作品の中に用意することで、その作品の中を拡張することができる。

 たとえば、ノベルゲームの場合、生まれる選択肢は限られている。3つしか選択肢がないのならば、それぞれを調べれば終わりだ。いずれ答えができる。でも、メタ要素があって、コンフィグ画面の設定が、物語にも影響を与えるとしたら? 正解は単純な選択肢に留まらなくなる。

 これが、メタの力だ。

 

 そして、同時にメタは物語を破壊する。何か都合の悪いことが起きれば、作者が作中に表れて、すべてを書き換えるような物語のどこに真剣みがあるというのか。現実世界と地続きになり、無限に拡張していく物語は、現実と差がなくなってしまう。そして、物語である意味が失われる。

 つまり、最大のリターンは、創作物が持っている制限を解除できる、ということであり、最大のリスクは、創作物が持っている制限を破壊してしまう、ということなのだ。これは言うまでもなく、表裏一体だ。

 だから、メタ要素があっても、優れた作品、評価されている作品は、メタ要素にも制限を設ける。メタのレイヤーすらも、もう一つ外の作品の枠に埋め込む。

 たとえば、「LEGOムービー」が、LEGOとは別の世界、現実の世界を取り扱っているとしても、そこには親子の物語があるように、たとえば、デッドプールがこちらを認識していたとしても、それは気が狂った戯言でしかなく、作中世界を変容しうるものではないように。

 この塩梅を間違え、メタ要素は、『制限された物語』を超えるための新たな制限である、ということを忘れた作品から、人々に批判される出来になってしまう。