研究

 科学史の本を読んでいて、近代頃の研究者たちに強い憧れを感じた。そうか、僕はこういった生活を送りたくて、なんとなく、科学者になりたい、と思っていたのだった。

 人里離れた場所で、コツコツと一人で思索や実験に励み、時々、成果を発表し、その研究の良し悪しがわかる。そういったことを繰り返して、自身の研究を進めていく。そういうことをしたいのだな、と思った。どういうわけかわからないが、幼少の頃からそういったことに憧れていた。

 現代の研究者というのは、そういった形ではない(一部例外はあるが)。大きな実験装置や測定器具が必要になるし、人員も予算もかかる。大学を超えて研究グループがあるのは当たり前だし、その中で上手いこと実験テーマを見つけて、研究を進めていく。そういったものに全く憧れなかったため、大学に入ってから研究者になろう、と思ったことは一度もなかった。むしろ、なるべく早く、退散したいと思ったものだ。

 ゲームに関して、ちまちまと思考を繰り返しているのは、そういった面が大きいのではないか、と思う。考えたことや、感想を定期的に挙げているのは、それを研究の材料にしたい・材料にして研究を進めて欲しい、という気持ちがあるからだし、自身もそういうつもりで感想を読んでいる。

 やはり、研究なんだよな。ゲームをやること自体が。ゲームの研究というのは、全然進んでいないし、全く体系化されていないので、その、近代の研究みたいなものが通用するかも、という淡い期待を無意識化に持って、研究に取り組んでいるのかもしれない。そして、どんどん独自研究になっていく。

 歳を取ることによって、涙もろくなっていることを自覚している。経験が溜まり、実感が伴うことで、共感性が上がってしまっているのだと思う。無意識ではあるが。人々に優しく接することも容易になっている。

 だからこそ、いい大人なのに、何かしらのカテゴライズをして、排他的な思想を持っている人々を見ると驚いてしまう。それはたとえば、男性とか、女性とか、性的志向とか、人種とか、国籍とか、年齢とか、社会的地位とか、学歴とか、職業とか、その他もろもろのことだ。なんというか、普通にそういうところにカテゴライズされる人で、相手側に知っている人がいないのだろうか。そういう人々たちが、別に自身と特段変わることなく、自身にとって仲良くできる人もいれば、そうでない人もいる、雑多でカテゴライズしきれない人々であることを知らないのだろうか。あるいは、ちょっとした取違いで、自分が差別対象のカテゴリに含まれてしまうことを想像できないのだろうか。

 

 海外の反黒人の純血主義の白人グループに密着する報道を見たことがある。その時、そのグループに属する人々が遺伝子検査をしていた。その中でも数人は黒人に(比較的近くに)ルーツを持つことが明らかになっていた。それはそうだ。アメリカは人種のるつぼなのだから。でも、その人たちはグループから排除されなかった。心は白人だとか、そんなことを言われて、慰められている。なら、そいつらが排除してきた黒人たちにも、心が白人な人(ってなんだよ)がいるかもしれないじゃないか。そうやって判断しないからこそ、人種で差別をしてきたのに。お笑い種でしかない。

 

 結局、そうやって、問題を矮小化して、単純化することは楽だ。あるカテゴリに属している人々は、ああでこうで、そいつらが悪い、なんて。そんなわけなのに。現実がどれだけ複雑で混乱するものなのかは、確定申告一つするだけで、容易にわかりそうなものだ。それがわかっていくから、人々は歳を取り、優しくなれるはずなのに。どうして、偏屈になってしまうのだろうなぁ。自然にしていればそうはならないと思うが、反面教師として気を付けていきたい。

目的と結果

 作品を創ろうという時、なるべく、少しでも面白くなるように心血を注ぐ。しかし、客の方を見ているかと言えば、全然そうではない気がして、それはどうしてなんだろう、と思っていた。

 僕が興味を持っているのは、エンターテイメントであり、それの真の姿、その機能こそが受け手の満足であるため、作品の真意を研ぎ澄まそうとすると、結果的に受け手にとって面白いものになっているはずなのだ。つまり、因果がそうなっている。

 客が笑顔になるように、満足してもらえるように、と作品を創っている人と因果が逆なのだ。良い作品を創りたい。良い作品を創ったからには客はそうなるはずだ、という順序なのだ。たとえば、僕が凶器を創ることに情熱を向けているのならば、それはどれだけ人を害することができたかで、その出来を判断するだろう。それが娯楽作品だからこそ、人を楽しませることができかで、出来を判断しているのだ。

 この因果が逆の人、あるいは別のところに目的がある人とはあまり話が噛み合わない、ということがだんだんはっきりとしてきている。

死からの逃避

 最近わかってきたんだけれど、僕はただ、何かに熱中できる時間を探している。つまり、現実逃避がしたくて、いろいろなことに手を出している。

 自身や世界はいずれ必ず死ぬ。そして、死は不可逆的現象で、避けるべきものである。という前提を持つと、死ぬを意識する必要はあるが、死を常に感じる必要はない。なぜならば、死を感じることはストレスになり、結果として死に近づいてしまうという問題がある。結果として、人生に必要なのは、なるべく、死を思い起こさせないこと。ただ、それだけなのだ。

 だから、そのためだけに様々なものに手を出している。目の前の何かに集中して、他の事、つまり、死について考えなくてもよい、という瞬間だけが正しい時間だ。その時間をなるべく長くするために、あらゆることをしている。論理的に正しく、筋が通っている。ようやく、自身の行動指針に対する理由付けができた。

プライマリーとセカンダリー

 自身の脳の構造がわかってきた。というのも、最も優先すべきと自身が考えていることを優先しすぎるきらいがある、ということだ。

 僕はプライマリーと呼んでいるのだが、その、現在最も熱中しているものにどうしても集中しすぎる。基本的には自由時間や自由な金銭をそれに注ぎ込み、それだけを延々とやっている。それ以外に、以前プライマリーだったものや、やりたいが今すぐでなくてもよいものがセカンダリーとして維持されているが、それらが表層にやってきて、自身の行動に表れる可能性が低い。ただひたすらにプライマリーを処理し続け、何かの拍子に飽きると、他のものがプライマリーに上がってきて、ということを繰り返している。

 ゆえに、僕は基本的に広く、浅く、という人間だし、いろんなものに手を出す。

 そして、それらの残骸がひたすらに足元に転がっている。未知のものに触れるということに価値を置きすぎているんだな、きっと。とにかく、知りたくてたまらないのだ。

低共感

 共感性が低い、ということがわかった。以前からそうかもしれない、とも思っていたのだが、いろいろとやっていく上で強く浮き彫りになった。

 僕は自身の共感性が高いと思っていて、その理由として、物語が好きなことを挙げていたのだが、どうやら、共感性が高いから物語が好きなわけではないらしい。むしろ、共感性が高い人々に聞くと、主人公などに感情移入しすぎて、観られない映画や、小説、アニメなどがあるようなのだ。僕はそういったことはない。

 むしろ、物語が面白くなるためなら、積極的にキャラクターを使い捨ててもよいと思っている節がある。緊迫感のあるシーンや悲しいシーンでも、いろいろと考えていられるのは、それ自体が感情移入していない証拠だ、という風に言われたが、確かに盲点だった。

 僕が変なタイミングで(作品の完成度が高いとか言って)泣いてしまうのも、感情移入とは別の方法で物語をみているのだろう。

 ラブコメとかが好きじゃないのもこの辺から来ているのかも?

 なんか世間と感想が噛み合わない時があるんだけれど、これが原因なのかもしれないなぁ。もう少し、しっかり検討したいところではある。

趣味の金額

 ウォーハンマーストアで無料のペイント体験をしてきた。最近、新規のプレイヤーが増えているらしく、年末年始で旧友が始めた、といったような理由で僕と同じように数人の人が体験に来ていた。

 そして、体験が終わった後、彼らは商品をみていくのだが、皆が思ったよりも高いな、としり込みをしているようだった。スターターキットは6000円、1万円、2万円ぐらいで、パック商品が2万円、というような価格帯だ。僕はそれをあまり高いとは思わなかった。どちらかと言えば、僕の家計は貧乏の範囲に含まれると思うが、そこまで高い趣味とは思わない。

 

 僕が高いと思う趣味は、車、子供のような桁違いに高い金額がかかるものだ。月数万円という程度ならば、そこまで高くないだろう。そもそも、ウォーハンマーの場合、新商品の発売はそこまで頻度が高いものでもない。ある程度、手元に揃ってしまえば、積極的に他に手を出さない限り、得るべきものは限られていくだろう。何物も、始める時が最もコストがかかる。

 あるいは、キリがない趣味よりよほど安いと考える。ソシャゲや、アイドル、ホストなど、天井がないような趣味はいくらでもある。こういったものは、モノや情報による限度というものがなく、無限に金銭や時間を注ぎ込むことができる。こういったものには個人的に恐怖を覚えるが、数万ぐらいで済むのなら、それはただの趣味という範囲だろう。

 

 まあ、最終的には人生という虚無の時間において、それにコストをかけてもよいと思えるぐらい、楽しいと錯覚できるモノであれば、その価値がある、ということになるのだろうが。