歳を取ることによって、涙もろくなっていることを自覚している。経験が溜まり、実感が伴うことで、共感性が上がってしまっているのだと思う。無意識ではあるが。人々に優しく接することも容易になっている。

 だからこそ、いい大人なのに、何かしらのカテゴライズをして、排他的な思想を持っている人々を見ると驚いてしまう。それはたとえば、男性とか、女性とか、性的志向とか、人種とか、国籍とか、年齢とか、社会的地位とか、学歴とか、職業とか、その他もろもろのことだ。なんというか、普通にそういうところにカテゴライズされる人で、相手側に知っている人がいないのだろうか。そういう人々たちが、別に自身と特段変わることなく、自身にとって仲良くできる人もいれば、そうでない人もいる、雑多でカテゴライズしきれない人々であることを知らないのだろうか。あるいは、ちょっとした取違いで、自分が差別対象のカテゴリに含まれてしまうことを想像できないのだろうか。

 

 海外の反黒人の純血主義の白人グループに密着する報道を見たことがある。その時、そのグループに属する人々が遺伝子検査をしていた。その中でも数人は黒人に(比較的近くに)ルーツを持つことが明らかになっていた。それはそうだ。アメリカは人種のるつぼなのだから。でも、その人たちはグループから排除されなかった。心は白人だとか、そんなことを言われて、慰められている。なら、そいつらが排除してきた黒人たちにも、心が白人な人(ってなんだよ)がいるかもしれないじゃないか。そうやって判断しないからこそ、人種で差別をしてきたのに。お笑い種でしかない。

 

 結局、そうやって、問題を矮小化して、単純化することは楽だ。あるカテゴリに属している人々は、ああでこうで、そいつらが悪い、なんて。そんなわけなのに。現実がどれだけ複雑で混乱するものなのかは、確定申告一つするだけで、容易にわかりそうなものだ。それがわかっていくから、人々は歳を取り、優しくなれるはずなのに。どうして、偏屈になってしまうのだろうなぁ。自然にしていればそうはならないと思うが、反面教師として気を付けていきたい。