「ゴジラ S.P」の感想

 最後まで観た。なんというか、これのどこに面白さを見出せばいいのか、良くわからないという感じだった。ドラマがない。物語がない。設定や作画(というか3Dモデルの出来)を楽しむというやり方はできると思うが、それ以外でどこが面白いか、正直、疑問しか抱かない。

 感想を観てみると、「TENET」と比較した感想が目立った。これは、ちょうどネトフリで解禁されていたからだろう。今作が面白ければ、「TENET」を薦める、というような形だ。しかし、全く出来が違うと思う。ノーラン作品の中でも、「TENET」はかなり下位な出来だとは思うが、「ゴジラ S.P」と比べれば雲泥の差だ。どうして、その差が生まれてしまったのか検討してみたい。

 

 まず、主人公の非人物性だ。両作品とも、キャラクターの過去や性格の描写などが少なく、世界の危機に立ち向かう人物という役割に焦点が当たっている。「TENET」の方では、名前すらないという徹底ぶりだ。しかし、人間味はそちらの方が圧倒的にある。どうしてかというと、人間味の描写がしっかりとされているからだ。序盤にまず、仲間を失って涙を流すし、中盤以降もヒロインやその子供、あるいは世界を守るという点が彼の中の主軸になっていて、ニールとの信頼関係の構築という面も強く出ている。世界を救うという目的はあるものの、それは自身の大切な人物を守るというものの延長にあるのだ。しかし、「ゴジラ S.P」はそうではない。何がしたいのかもわからないし、身体能力がどれぐらいあるのかすらも、描写が曖昧だ。子供を救うために行動することもあるが、正義感という描写がされていない。あの会社で働いている理由や、A.I.の研究をしている理由も謎。とにかく説明がされず、物語上、必要だから配置されている印象が強い。しかも、本当に重要なのはA.I.の方で、本当に彼が必要だったのか、というと疑念が残る。

 次に、SF設定の濃さ。「TENET」は物質が時間を逆行できるようになったら、という一つのわかりやすい仮定を置く。もちろん、その結果生まれることはわけがわからないと感じることも多いだろうが、それもそのはずで、矛盾があるのだ。ただ、そういったことは些事なので、気にしなくてもいい。「ゴジラ S.P」も基本は特異点と紅塵という多次元物質の話としてまとまっているはずなのだが、ゴジラなどの怪獣を出されなくてはいけない関係と、それに対峙する必要性からA.I.の話が絡んでいて、わかりにくくなっている。どこからどこまでが現実の科学的な話をしていて、どこからが空想の話をしているのだか、良くわからない。作者も区別できていない(していない)とも思う。主人公たちの話も、それらが混じっていて、どこまでを適当に聞き流し、どこまでを真面目に検討すればいいのかわからないのだ。これは大きな問題点だと考える。特に、その設定のほにゃららだけで時間をかなり潰しているのだから。

 物語のテーマとも関係がないのも気になる。「TENET」の場合、時間の逆行は、つまり、未来が決まっているということも指すのであって、未来が決まっているのに、時には自己を犠牲にして任務を遂行する必要があるのか、というような、予定説にも関連するテーマがあり、物語がそれに従って構成されている。テーマとギミックの主題が一致しているのだ。これは、「インセプション」の何が夢で現実なのか、「インターステラー」の愛は時空間を超える、という点にも観られる。というか、これこそが、SFの肝であって、それを外したら、ただの設定お披露目会である。

 「ゴジラ S.P」が設定お披露目会でなく、物語的なテーマとSF設定が一致している思っている人がいるならば、そのご高説を是非、お聞きしたいものだ。

 

 また、僕が調べた限りでは、面白いと言っている人も、ほとんどが理由を表明していなかった。そして、興味深いことだと思ったのだが、『わからないけれど面白かった』ということを言っている人が多くいたのだ。そういった人の一部には、ジェットジャガーがどうして、大きくなったのか(大きくなったというのは語弊があるが、それすらも)わかっていないのに、面白いと言っている。これで、『「TENET」が難解で理解できないのに、面白い映画』と宣伝されていたことを思い出した。

 言うまでもないが、確かに全てを完全に理解するのは初見では無理だろうし、そもそも作中の現象に矛盾があるので完全な理解はある意味できないのだが、そんなのはどうでもいいのが、物語というものだ。つまり、物語的な主軸やテーマ、主人公の心情の流れを把握できればいいのであって、発生している些事を全て把握する必要はないのだ。それならば、「TENET」は全く難解ではなく、シンプルな作品となっている。それなのに、難解である、と宣伝されているのだ。

 思うに、これは『難解である作品を観ている自分が優れている』または『理解できていないがそれを面白いと言える自分』をアピールする目的なのではないか。90年代前後に、わざとわからせる気のない設定などを出して、それをたしなむのがマナーというような作品があったようなアレの現代版だ。もちろん、「TENET」はそういった作品ではないのだが、そういった消費の仕方をされている側面があるように思える。だから、「ゴジラ S.P」も『全く話がわからないけれど面白い』という本来ならば意味の分からない感想が出るのではないか。まあ、もちろん、個人差はあるだろうけれど。

 

 他にも文句は腐るほどあるのだが、キリがないので省く。「屍者の帝国」を台無しにするだけでは飽き足らず、貴重なゴジラアニメ枠まで消費するとか、各位ファンにとっては不俱戴天の仇ではないのだろうか。マジで。結構ゴジラファンの、ゴジラである意味がなかった苦情が一番目についたし。

 端的に言えば、この作品は、そもそも、物語と言える代物になっていないと言える。そういう意味では、「Vivy」の方がまだマシ、というひどい作品だ。

「SSSS.DYNAZENON」の感想

 正直に言うと、マインドセットを間違えたかな、という感じだった。なんというか、「ワンダヴィジョン」と似たような感じだ。この作品においての偽トロは、前作である「SSSS.GRIDMAN」である。これは、作品にギミックがあって、それを主軸とした物語が展開するタイプだった。だから、観ていて、ギミックを期待してしまった。どのような設定で前作と繋がっているのだろうか、と。実際には独立性が高かった。

 でも、これは脚本的に失敗していると思う。大した意味もないのに、偽トロを出してしまって、X-MENとの融合というところに目が行ってしまって、ワンダの、大事な人を失った後の精神の復活という主軸が失われてしまったように、変にガウマさんの過去を引き延ばしたせいで、怪物という感情や自由性の発露と戦う社会不適合者の社会性というテーマが薄れてしまった。

 大した秘密でもないのだから、中盤辺りにあっさりと解決してしまえば良かったのに。そして、この世界が前作のような設定でないことを明確化する。他にも、主人公や怪物の立場、テーマ性を1話で明示するとか、そういうことが必要だったように思う。マインドセットというのは、かなり重要だな、と感じさせられた。「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」が優れているのはこの点が大きい。しょっぱなから、直接的にテーマを明示してしまう。だから、読み取りが薄くなってしまったとしても、物語の目的を失わずに済むのだ。ゆえに、あれだけの情報量があっても、観客は迷子にならずに済む。これがちゃんと出来ていない作品は多く、今作もこれに含まれると感じられた。

 最終回まで観て、薄々わかってはいたが、やはり、ギミックはないのか、と安心すると同時に、じわじわと良さが湧いてきた。新しいことに挑戦していたと思うし、それは一部成功していると思う。しかし、やはり、マインドセットが上手くいっていない。群集劇として、敵味方が複数人主軸になっているのも、悪い方向に働いている。単純に、コストがかかるので。時間が間に合っていない。しかし、描写を上手くすれば、間に合わないことはなかった。序盤のセッティングが失敗しているのに、中盤以降、無駄が多かった。それが敗因だろう。

 作画は言うまでもなく良かった。アクションも。

 最近、序盤のマインドセットの重要性をしみじみと感じる作品が多い。これによって、観客はこの物語をどう観るかの視点を決めるのだから、かなり重要だ。素晴らしい監督は皆、ここが上手いと常々感じているのだが、それは正しいようだ。

「Vivy」の最新話で流石に呆れてしまった

 厳密に言えば、まだ最終回が残っているので、ウルトラCが発生する可能性もあるけれど、今期のもう駄目だ枠は「Vivy」になりそう。

 A.I.、アンドロイド、心、人間、ループものという面白くなりそうな(しかし、扱いが難しいし、正確に描写することが難しい)要素を使っておきながら、その全てが作中における定義や意味付けが曖昧で、しかも、極度に感情的な展開(しかし、めちゃくちゃありがち)を繰り返す、という全方位に不誠実な展開を延々と繰り返す物語なので、ストレス指数がかなり上がる作品となっている。「CHAOS;CHILD」を書いた人が書いた脚本とは本気で思えないんだが……長月がメインライターってコト? MAGES.が有能過ぎたって考えるべき? いや、それにしては空想科学シリーズの他の駄作が説明つかんが……

 なんというか、本当に、本当っに、全体として不誠実なんですよね。テーマや物語を展開にするにあたって、その作品における要素の定義というのを、直接的でないにせよしなければならないですよね? 前提の提示という奴。最初の10分ぐらいでやることが多い。あるいは、前半の物語を贅沢に使う場合もある。けれど、この作品は、本当にそれがない。A.I.とか、心とか、歌とか、ループものにおける時間の分岐とかって、色んな解釈がありますよね。それなのに、この作品としての各要素の定義(もちろん、これは後々の展開によって、覆されることはある。それも含めての定義の役割なので)が全然されなくて、君たちはいろんな物語で観たことがあるでしょうから、省略、みたいになっちゃってるんですよ。これ、本当に最悪で、しかも、実際に、よく観た展開にしかならない。いや、そうじゃないでしょ。物語における勘所がめちゃくちゃでしょ。そうじゃなくて、「君の名は。」とか「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」みたいに、良く観た奴だからこそ、ギミックの説明を省略して、その作品オリジナルの、その作品のテーマに尺を割くべきであって、順序が逆転している。テーマの前提を書かないで、テーマの話をされても、何のことだか意味わからんて。

 こういう駄作はまあ、山のようにあるわけだけれど、話題になる駄作と話題にならない駄作の差が僕にはよくわからない。作者の知名度? 作画の綺麗さ? どちらにせよ、度しがたいね。

情報の正しさと密度

 僕にとっての作品の出来不出来というものを考えていた。前提として、僕のコンテンツへの向かい方として、創作者の意図を読み取りたいというのがあるのだと思う。もちろん、その前に普通に面白くあるべき、というのはあるのだが。だから、僕にとって出来の悪い作品というのは、意図はわかるが、その実装が悪いと思うものなのだ。だから、こういう作品だと思うのだけれど、その意図を正確に表現するのならば、このようにすべきだ、と考えるという意見になる。もちろん、その変更が正しいとは限らないんだけれど。でも、僕の感想としてはそうなってしまうわけだ。あるいは、作者のメッセージが大したことないと思ってしまったら、大したことのない作品になってしまうし、その結論が間違った知識から導き出されたものだとわかってしまうと、それは間違ってますよ、という感想になる。あるいは、意図がわからないと、申し訳ないのだけれど、僕にはこの作品で表現したかったことが読み取れませんでした、ということになるのだ。

 だから、僕にとって、素晴らしい作品というのは、意図・意味・情報が詰まった作品であって、こういうテーマを伝えたい、こういうことを表現したいのだとわかるし、それはこういうところからも読み取れる、ということを延々と続けてくれるような作品である。

「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」の未見性

 昨日の記事を読み返していて考え直したのだけれど、やっぱり、「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」はあの未知のキラめきに半分足突っ込んでるわ。だから、すごい良かったと感じたのだと思うのだよね。ふたかおとか、真矢クロとか、その辺は既視感があったし、純那ななもアニメ版でできなかったこと(まあ、これは真矢クロも含むが)をやったという感じがあったから、既存の構造みたいなことを昨日は言ったけれど、その後の華恋とひかりの対峙からエンディングまでは半分以上、未見の領域だった。

 だって、あのシークエンス、この映画のコアであって、完全な主題なのに、時間にしたら10分ぐらいしかないんじゃないの? めちゃくちゃ短い。なのに、全てを表現しきっている。BS2で言うところの、ミッド・ポイント(偽りの頂点)→すべてを失って(死の恐怖)→第二ターニングポイント(復活)まで一気にやってるじゃん。しかも、2回ぐらい繰り返している(ロケットで舞台に戻る後に、ひかりに刺されてから最後のセリフ、というところまであるので)。あれは、すごい。すごすぎる。それを、説得力あるものにしているのがすごい。それは細かい積み重ねだったり、モチーフやオマージュを混ぜた情報量の密度だったり、色んな要因があるのだろうけれど。この構成だけで、この映画を語り継ぐ意味があるよ。それぐらい、すごい10分間だ。

 というか、やっぱり、構成がすごいよな。レビュースタァライトの劇場版というかなり制限がキツい中で、むしろ、だからこそ、というべきなんだけれど、こんなに単純でありながら、捻りの利いた構成になんて、普通はできないでしょ。まさに、ワイルドスクリーンバロック。しかも、これを主題にしているってことは自覚的というわけであって、余計にすごい。

 いくらか否定的な意見も聞いたし、そう思っている人と話もしたけれど、どちらかというと、そういう人は色々と読み切れていないという印象だ。

 減点式にすればいくらでも減点できそうだし、僕はそういう観方ばかりする人間なんだけれど、それを捻じ曲げてしまうぐらいにはすごい作品だった。

捻りと終着点

 「進撃の巨人」が完結した。一応、初期から読んでいたのだけれど、マーレ編に入ったあたりで、これ、一気に読まないと設定忘れる奴だなと思って放置していたので、残りを一気に読んだ。綺麗にまとまって終わったと思う。

 しかし、ベルトルトの正体が明かされ、ライナーが裏主人公になった時に感じた、あの、これから先、僕たちは、未知の新しい物語を読むことができるかもしれない、という強い高揚感に値するような作品にはなれなかったように思える。

 「ファイアパンチ」の2巻を読んだ時も思ったのだけれど、その、未知への高揚と言えばいいのか、あの、何かとんでもないことが始まるようだ、という予感があるだろう。それがとてつもない面白さに繋がっていると感じられるのに、結局は既存の観たことのある構造になってしまうから、少し興ざめしてしまうというか、神童が結局はいいところどまりの大人になってしまったような、そんながっかりとした感覚がある。これは、「チェンソーマン」の銃の悪魔らへんにも感じたものであって、最終回では、がっかりしたのと同じだ。「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」もめちゃくちゃ好きなんだけれど、でも、一番テンションが上がったのは、初見の時の、皆殺しのレヴューで、あの時感じた、あのキラめきであって、それを超えるような全体の完成度だったか、というと疑念がある。

 結局、物語的なテンプレートというのは細かく決まっていて、本当に面白いと感じられる範囲というのは驚くほどに狭い。個性的な展開を繰り返して、とてつもないエンディングにたどり着くことが無理とは言えないが、あまりにも神業すぎて、普通の人間ができるようなことではない。だから、未知と感じるようなキラめく何かがあったとしても、結局は、似たようなところに着地してしまう。その既視感に、心底飽き飽きしているし、そこにしかたどり着けないのか、というような絶望感を抱いているのだと思う。

 とはいえ、変な着地をしようとして失敗する数多の作品より全然、面白いのは間違いないし、実力のある作者ほど、未知の構造がどれだけ難しいのかわかっているので、無難だと言われてもちゃんと着地させる。それに、少しがっかりした、なんて言うのは、受け手の傲慢な、強欲な発言であることは十分に理解している。……でも、少しだけ観たい気持ちがないか? あの勢いの、あの捻りの、あの未知のままに、しっかりと着地する物語が。

自己肯定感の根本

 妻と話していて、どうして、そんなに自己肯定感が高いのか、と聞かれた。確かに、ネット上に自己評価は上下するが、自己肯定感は高いまま、という画像が貼られていて、それに近いな、と思ったので、自己肯定感が高いのだろう。

 で、大元をたどっていったら、おそらく、小学生ぐらいの時に、それなりの場所に出られたというのが大きいのではないかと思った。周囲は一回り大きい人たちばかりだったし、その中でそれなりの働きができたのは、大きな自信の一つとなった。しかし、同時にとてつもない世界を知った。世界には、自分と同じぐらいの年齢で、とてつもないことをしている人間がいることを知った。確かに、環境の違いもあるだろうが、それを超えた才能を持っている人がいる、というのを同時に感じたのだ。これが良かったのだろう。

 地方を限定したり、そこからさらに年齢を限定すれば、ある程度のところに行くこともできるだろう。ただ、基本的には、それは井の中の蛙なのであり、もっとすごい人はいくらでもいるのだ。そういう、等身大の肯定感が得られたのだと思う。だから、誰かから評価されることにあまり意味がない(もっとすごい人はいくらでもいるので)という感覚と、しかし、自分も捨てたもんじゃない(それなりのことはできるので)という感覚が幼い頃から同居出来ていたのだ。今思うと、幸運であるという他ない。

 そういう、感覚の基盤があって、その上に今ではしっかりとした論理が乗っかっているので、堅牢な肯定感、というか絶対感というものがあるのだろう。きっと、死ぬまで不遜にしていられるに違いない。明日、世界から自分以外の全ての人間が消えたとしても。