ゲームを完成させること

 「これは初めて創ったゲームですか?」と聞かれた。返答に迷って、「初めて完成したゲームです」と答えた。すると、「どうですか、初めてのゲームが遊ばれている感想は?」と聞かれた。確かに、ちょっと前から横のテーブルでは自分のゲームが遊ばれている。それなりに盛り上がっていて、自身の感触がある程度は間違っていないことは明らかになっていた。でも、感想は? と聞かれて、少し戸惑った。その時、率直に浮かんだのは、彼らがどう感じているのかが知りたい、だった。プレイしていて、楽しいと感じた瞬間はいつだったのか、つまらないと感じた瞬間はいつだったのか、ゲームの感触はどのようだったのか、そういったことが知りたかった。でも、一拍置いて、ああ、そこは自分のゲームが遊ばれていて嬉しいとか、楽しいと言われて感動したとか、そういうことを言うべきなんだな、と思った。

 そういう意味では、あまり自身のゲームに執着がないのかもしれない。なるようになるべき形に導けたという感触はある。かなりの時間的なコスト、思考リソースを割いてきたが、それはやるべくしてやったことで、それがあまり執着に結びついていない感じがする。初めてのゲームだから愛着が湧いているというよりも、初めてのゲームだから色々なことを教えてくれたという感謝の念が先立っている。

 僕がゲームを創った、というよりも、そのゲームが持っているイデアに最も近い形に近づけられるか、ということをゲームの試されている、という感覚だった。ゲーム創りは自身の何かを表現する、というよりも、自身の技量を試されている、という印象だった。だから、それが思っていたよりも楽しかった。まだまだ、自分の腕は高が知れている、と実感できて。もう半分、次のゲームのことを考えていて、それを妻につっこまれてしまった。

 どうやら、自分で思っていたよりも、僕はゲーム創りに向いていて、思っていたよりも向いていないようだ。苦しく、つらく、楽しい趣味がまた一つ増えた。そんな気がする。