選択と未来

 未来の想定が非常に難しい、と感じる。

 たとえば、現代的な日本が明確に確立したのは、1960年頃だと思うのだが、ゆえにデータが少ないものが多い。その頃に施工された建物やインフラがどの程度持つのか、というのはこの場合だと、60年分のデータしかない、ということになる。海外の事例を漁ることもできるのだが、それはあくまで複数のパラメータが異なる海外のデータでしかない。

 翻って、現代に生きる我々が30~40年を見据えた選択を迫られることがある。たとえば、住宅を買う、というようなことはそうだ。そういったスパンの買い物で、そういったスパンでコスト・パフォーマンスが決定される。

 率直に言って、無理だろ、と思ってしまう。合理的な判断が可能なレベルまで、データが集まっていない。買う方も売る方も建てる方も、曖昧な根拠のまま、まあ、行けるっしょ、という感じだ。別にこれは住宅業界が腐っているとか、そういうわけではなくて、工業製品とかも案外そんな感じだ。工業的な仕事に近くないと、あまり気付かないかもしれないが、ひやひやするような決定が軽く下されることは多々ある。医療に関しても、科学技術の研究に関しても、割と損な感じで、実際は割とノリだ。

 仕方ない、とも言える。たとえば、地球の気象や地理、工業製品、人体、住宅、小説や映画、ゲーム、その他もろもろの事象は、実際、あまりにも多様な要素で支えられているカオス系で、現代科学で解析しきれるものではないのだ。データは或る種の指標を提示してくれるが、それを支えにするほどの強度を持たないことが多い。

 だから、未来は分からない。単純にカオスすぎて。ミクロで考えても、自分の1年後を明確に想像できない。1年前にこのような考えを持つ自分にたどり着くことを想像できたかというと、疑問だ。これだけを歳を取ったとしても、やはり、わからないことが多い。

 結局、適当にするしかないのだろう。わからないことは恐怖を生むこともあるが、その恐怖を食い物にする構造も多い。その恐怖は適切なものだが、過剰なものでもあることを実感して、冷静に判断するしかない。まあ、安心すればいい。どんな選択をしても、最後にたどり着く駅は決まっている。その選択に意味はない。