修正・追補

 もうちょっと考えてみた。大きく2点あると思った。

 

 まず、どうして、さほど影響がないと個人的に思ったのか、という点なんだけれど、僕は現実の出来事を作品の評価に反映することが嫌いなので、元々、元ネタの事件との関連を薄くとらえており、あまり影響がないと思っているのだと思う。僕の思う、創作の出来、というのは、古今東西全ての人類に対して、というものなので、歴史的な背景とか、時代性とか、そういうものに根差した評価は行いたくないという気持ちが強く、自然と排除している。もちろん、創作のきっかけになる事件というのはあると思うし、それを知っていることで、その作品に対する理解が深まることも多いとは思うが、それはあくまで、背景を知っている人の見方であって、フェアでないという感覚がある。細かい考察を調べないといけない作品も、それで嫌いなんですよね。原始時代にその作品を持って行ったとして、面白いと思われるのか? という話で。めちゃくちゃ極端なのは自分でもわかっているが。でも、「ルックバック」はそういう時代性などを超えた素晴らしさがあって、十年前に出ていたとしても評価されていたと思うし、アメリカでだって、アフリカでだって評価されていただろう。だから、事件と結びつける要素に価値を置かない、という考え方だ。

 では、なぜ、それでも前の方が良かった、となってしまうのかというと、やはり、今回は修正に関しての時間がなく、あたりさわりのない、普遍的な、本当はもっと素晴らしい修正ができたはずなのに、そうではない修正になってしまったからなのだろう。つまり、修正されたこと、自体が問題なのではなくて、修正後の姿が微妙だから、問題になっているのだ。思い付かないが、これが、関係者も太鼓判を押すような表現でありながら、以前よりも深みを増したような表現に変わっていたら、問題視した人はいただろうか? ほとんどいなかったと考えられる。つまり、一度世に出て、評価されたものが、劣化した状態になったと感じられたから、問題になっているのだ、と考える。だから、これを言うのは酷だと思うが、本当のところは、出版が近いなどの問題があり、急遽、絵を変えなくても済むような範囲で、という条件で、あたりさわりのない(本当にそうなのかは疑義があるが)表現に置き換えて、クリシェになってしまったことが問題なのであり、そうではない修正を探るべきだった、というのが結論になるのではないだろうか。

 

 いや、まあ、外野が何文句言ってんだ、という感じでしかないが。