作品に対する考察

 長々と感想を書いた後で説得力がないが、僕はあまり細部に目が行かない人でもあるため、あまり作品を読み込んだりはしないし、むしろ、そういうことを前提にしている作品群が嫌いでもある。しかし、テーマ性が強い作品は好きだし、そういうもののモチーフや演出と言ったことを考えることも良くある。どうして、その差異が生じているのかを考えてみた。

 

 まず、考察のようなことがなくても面白い作品がどうか、だ。それ自体が面白ければ、それを何度も観ることによって、自然と疑問が湧いてきて、そして、その答えが作品内に隠されている。これは、面白い作品だ。そうではなく、作品自体はつまらなく、でも、謎が散りばめられていて、それを追うのが楽しいんだ、という人がいる作品がある。これは、ある意味、謎解きパズルのようなもので、エンターテイメントとしては面白くないというわけだ。

 

 次に、そういったディティールを、観客にわからせるために存在させているのか、観客をけむに巻くために存在させているのか、という違いがある。パロディとパクリの違いのようなところでもよく挙げられる差異ではあるが、前者の場合、そのディティールは観客にわかってもらいたくて配置させられているのであり、一度目は情報量が多くて目に入ることがなくとも、何度と観るうちに自然とわかるようになっている。作品内に答えがしっかりと用意されている。しかし、後者の場合、自分の作品が奥深いように見せたいがために用意されているので、わざと難解にしたり、矛盾が生じるようにしたり、作品内の知識だけで把握できなかったりする。これは、ただの誤魔化しだ。

 

 最後に、作品と関連しているかどうかだ。上手い作品は、モチーフの使い方などが、キャラクターの心情や立場を表していたり、背景を示していたりする。限られた上映時間や予算と言った制約の中で、出来る限り、その作品に情報量を詰め込むために工夫を凝らしているのだ。一方、下手な作品は、ただ制作陣の思想などを入れ込むだけであったりして、作品と関係がなかったり、下手するとキャラクター性と矛盾することすらある。不自然なのだ。

 

 そういったような差があると僕は考えている。まあ、でも、これは主観的な話であって、パロディとパクリの差がたびたび問題になるように、曖昧なものでしかない。