異質さの統合

 最近考えていることに、異質なものをどうやって、違和感なく統合するか、というものがある。なぜかと言えば、それがゲームとしての面白さに繋がる気がしているからだ。

 たとえば、「マジック:ザ・ギャザリング」において、マナ(エネルギーみたいな奴)と手札を消費して出すのは、クリーチャーやソーサリー、プレインズウォーカーなどのカードの種類がある。そして、それぞれには細かいルールがあって、本質的には全く異なるものなのだ。しかし、プレイヤーはその状況を明確に判断して、どちらを出すべきなのかを判定しようとする。それが現代的な複雑なゲームの面白さに繋がっているのはないか。

 シド・マイヤーズ・シヴィライゼーションシリーズなどでも、建築物やテクノロジーという括りがあり、その中で軍事を伸ばすとか、内政を強化するとかを選択するわけだけれど、それらは文明の発展という括りにまとめられてはいるが、本質的には全く異なるものである。しかし、それが統合されているから、理解に支障はきたさない。一方で、異質なものだから、判断が難しく、そこに習熟の難しさが生じる。

 こういったものを、雑多だからと言って、同じような概念で統合してしまうゲームがある。しかし、往々にして、そういったゲームには中毒性がなく、良く出来ていると思うが……などと言われてしまうのだ。これは、統合が行き過ぎて、異質なものと感じられなくなってしまったのだと思う。逆に、理解が難しすぎるとか、良くわからないままにやめたくなってしまう、というのは、異質なものの統合ができておらず、学習コストが高すぎたり、感覚的な違和感が先行してしまうのだろう。

 もしかしたら、これはゲーム性だけではなく、物語にも言えるのかもしれない。色々なプロットや設定を、省略したり、象徴化しすぎずに、上手く統合できるかどうか。そこに面白さの根源の一つがあるのかもしれない。