考えることが娯楽

 だんだんわかってきたことなのだが、僕はシステムやシナリオについて考えるのが好きなんだな。たとえば、ゲームもやること自体が好きではないんですよ。だって、そうならもっとプレイしているはずだから。作ること自体も、発表すること自体も、好きではない。ならば、すでに同人活動なりなんなりやっている。考えること自体が好きだ。

 これは、かなり歪な欲なのかもしれない。多くの人は、より良いものを作るために、考えている。いっぱい遊んだから、考える。僕はそうではなくて、考えるために遊んでいる、作っている。考えることが目的となっている。その手段としての、読書や視聴、遊戯、創作がある。

 だからさ、正直、映画やゲームも、皆より素直に楽しめていないのだと思う。もちろん、好きでプレイしているゲームも多いし、好きで観ている映画も多い。ただ、それ以上に、構造を解析したいとか、今の流行の構造を知りたいとか、今作っているものの参考にしたいとか、そういう、解析が目的でやっていることがほとんどだ。だから、ゲームの場合、構造を解析してしまうと、クリアする前に売ってしまう。もう、やる意味がなくなるのだ。ボードゲームもプレイしては売るを繰り返しているのも、そのせいである。目的を果たしてしまうのだから。

 どうして、そうなのかはわからない。ただ、結構前から、そうだった。考えることが最大の暇つぶしで、娯楽だった。それが良くなかったのだろう。完結してしまっている。何かに繋がらない。それが、思考というものだ。