効率主義への憧憬と恐怖

 妻が引っ越し段ボールの中身の整理をしている。引っ越しはこのブログを書き始めた時、つまり、一年半前ぐらいに行ったので、そういうことである。彼女の荷物は法外に多いので、苦労しつつ、荷ほどきしているのだ。そんな最中の会話で、もう引っ越しをしたくないという話が出た。2人の引っ越しとは思えないほど苦労したので、僕も同意見ではあるのだが、その中でミニマリストの話になった。どうやら、二人ともそういう生活に憧れてはいるようなのだ。

 僕も妻も理屈好きということもあり、高効率と親和性は高い。きっと、やろうと思えばできるのだろう。僕も妻ほどではないが、人並み以上には荷物を持っている。しかし、なければ困るというものでもない。アナログゲームと本だけなのだから。手元に置いておきたい一方、本当に手放したくないのはごく一部に過ぎない。それは彼女も同じだろう。しかし、二人ともミニマリストになるのは避けている。なぜなのか。

 それは、そうしてしまうと、確実に双方ともに死んでしまうとわかっているからだ。

 趣向品とは、執着の塊である。無関心のラインを上げていけば、それは簡単に無意味の塊になってしまう。しかし、そうやって効率を上げた先には何があるだろう。死だ。人間にとって最も効率的な選択肢とは、自死なのである。当たり前だ。過程よりも結果を重視するのなら、コストパフォーマンスこそが最大の焦点だというのなら、最高点をたたき出すのは即死に違いない。生命活動なぞ、無駄でしかない。

 だから、僕たちは生きている限り、収集を続けるだろう。家賃は高くなっていき、引っ越しは億劫になっていき、自身は老いていく。もうどうでもいいやと思った時、そこが僕たちの終着点だ。