理由付けに関して

 最近、脳や物語に関する本を読んでいる。面白さとはどういうものか、理解したいからだ。そこで、人間は自然と物語を求めるという話が何度も出てきた。

 人間の脳には、理屈を付ける機関が存在する。それはきっと、法則性を見つけることに長け、結果として残った能力なのだろう。理屈の付かないものだとしても、同時に起こったり、順番に起こった場合、そこに因果関係を見つけてしまうのだ。例えば、ある宝石を身につけている時だけ、ダイスの出目がいいとか、そんなことだ。しかし、その理由を理性が説明出来ないことも多い。もちろん、そこに必然性はないからだ。この世界は純然たるランダム性と、峻厳な法則性に支配されているため、小説ならば、馬鹿馬鹿しいと思ってしまうような現象が起こってしまうことがある。現実は小説より奇なり、だ。しかし、人は自分に理解できない理由によって、物事を結びつけてしまう。結果として、宗教や運、神と言った存在しないものを信じてしまう。それは自然な脳の機能だ。あらゆる文明に大なり小なり宗教があるのが、それを証明している。

 そして、人生に対しても、意識についても、その機能は発揮されてしまう。人間は無意識に人生の脚本を意志しており、それが達成されないと気付くことが挫折なのだという。それが犯罪に結び就くこともある。

 人間は物語に取り憑かれている。それだけが意味のあることであるかのように。普通に社会が上手い人間ですら、その自分の脚本に従って生きていくだけなのだ。

 だが、それがわかったところで、どうなるのだろう。僕たちの脳もそうした法則に支配されている。過去を正当化し、コストとリターンの帳尻を無理矢理合わすような機能を持っている。奴隷のような人生だとしても、大して不満を抱かないように出来上がってしまっている。そして、そうであったとしても、そうでなかったとしても、物理的な脳がそう出来上がっている以上、なにをしても仕方ないと言えるのではないか。人間である以上、覆せないところに不満を持つなんて、僕はなにがしたいのだろう。