一つのなにかになろうとすべきではない

 一般的にこの社会では、誰かがなにかになることが推奨されている。自分に向いていることを一生をかけて習熟し、その役割を社会で担うことが期待されているのだ。

 しかし、それは正しいことではない。人間というのは、物理的にも数年で多くの分子が入れ替わるし、精神性としてもその時々で変わる。意識というのは、後付けをする機関と言ってもいいし、左脳と右脳でなりたい職業は異なる。確固たる個人なんてものは、生物学的に存在しえないのだ。それなのに、社会はそれを求め、そうすることで、最大の社会的利益、つまり、金銭や地位、承認が得られるようになっている。それが社会としての最適解だからだ。

 だが、個人として、それに従うのは正しいことなのだろうか。どんなに好きなことであっても、それを延々と続けていれば、ごく一部の人を除いて、それが嫌いになってしまうだろう。好きな食べ物で考えて見ればいい。そうでなくとも、好きでやっていたことだとしても、報酬が発生してしまうと、いずれ、その報酬が目的になってしまい、報酬なしにやらなくなってしまうという現象もある。

 だから、なにか一つに絞ることは到底不可能なのだ。それを認めるべきなのだと僕は思う。確かに、それは社会的な最適解ではないのかもしれない。社会が用意した報酬を効率良く手に入れる手段ではない。しかし、そんなものを求めてやいないだろう? それをもらっても虚しくて、虚しくて仕方がないから、社会に迎合出来ていないのだ。なら、その欠点を唯一の利点として行くしかない。

 僕は、今、自分がしたいことをする。もしかしたら、それはずっと続いて、僕になにかをもたらすかもしれない。けれど、それを目的とはしないし、それを辞めたくなった時にはすぐに辞めてしまうことにする。それしか、幸福でいられる手段はない。それだけが、正しい姿勢だ。僕たちは流動的で、なにかではあるが、なにかで居続けることはない。それを肝に銘じる必要がある。大事な自分の人生を、他人や社会に利用されないためにも。