特徴

 今日は妻の実家に行ったのだが、久しぶりに嫌な気持ちになってしまった。

 彼女の父が、彼女は小学生の頃はテストも勉強せずに満点で、頭が良かったので、コツコツ勉強していれば、今頃は大成していたのではないかと思っているといったようなことを言っていたためだ。まず、これらの妄言には山のようにツッコミどころがある。

 

 まずは、テストの点数なんてものは大した指標にならないということだ。もちろん、これによって、入る大学などは決まってしまうし、人生を左右することはあるだろう。しかし、それは人の価値を計る指標には絶対になり得ないし、頭の良さを測るものでもない。もちろん、比例する傾向にあるだろうが、あくまで一般的に関連があるというだけの話だ。そもそも、テストで点数を取るなんてことは、それが得意だった僕自身が自認しているように、大した能力を必要としない。誰かの用意した正解を暴くというだけの行為で、現実的な開発や研究といった能力とは別のものである。

 また、コツコツ勉強というのも間違っている。確かに、それは簡単に学校の成績を上げ、テストの点数を上げることだろう。しかし、手段が目的になってはならない。一夜漬けでも結果が出ればいいじゃないか。さらに言えば、妻は一夜漬けタイプの人間であり、集中すると寝食を忘れ、物事に没頭し、コストパフォーマンスを度外視したものを作り上げることが出来る。何かとコスパを計算し、効率の良い動きしか出来ない僕としては、喉から手が出るほど欲しい資質であって、才能だ。これは特徴であって、欠点でも利点でもないのだ。それを妻の父は理解していない。その集中力を得る代わりに、時間を計算して、効率よく投入する能力を持たないのだ。それはトレードオフの関係にあるのだから、無い物ねだりにも程がある。

 最後に、彼女は十分に今の状態で聡明かつ先見の明がある。普通の人になんかなっていない。少なくとも、彼女の父親よりも頭はいい。

 

 子を成した親なのに、こんな基本的なことすら理解していないのだ。そういう奴らが親になり、子の才能をつぶしていく。結果、この社会にはつまらない、どうでもいい人間が溢れていく。まるでたちの悪い三文小説のような現実がそこにはある。人間に欠点や利点などないのだ。あるのは特徴だけ。それを殺して、社会に迎合させるのも手だろうが、そこに待っているのは、数として数えられてしまう歯車としての人生だ。ならば、個を生かすべきだろう。社会と適合せず、事件を起こしたり、自死してしまっても仕方がない。それが、その人の特徴だったのだから。そう、脳が構築されてしまっているのだから。