現代的な交流

 僕は細かいことに気を配れない人間かつ出不精で聞き取り能力に難ありとコミュニケーション三重苦を背負っているので、非常に交友関係が狭いのだけれど、最近は少し緩和されて、コミュニケーション底辺人間ぐらいにはなっている。

 そして、昨日、ふと面白い状況になっているな、と思った。僕がその日、交流した人間が数人いたのだけれど、よく考えると、それぞれ会話している媒体が異なったのだ。とはいえ、リアルで会っているのは妻だけだから、他の人とはネットを使って話したのだけれど、それぞれ違うアプリを使っていたのだ。それも、それぞれ別な話題について話していた。それがひどく現代的で面白いなと思ったんだ。

 きっと、昔ならそもそも空間や時間の壁に阻まれて何も出来なかっただろうし、近所にいた人々でさえ、総合的な交流にならざるを得なかったのだろう。けれど、現代社会では部分的で流動的で緩やかな繋がりが許容されている。好きに独り言を呟いて、それに反応しなかったり、反応してみたりなんてことが出来るTwitterやブログなんかはまさにそれだ。それが、どこか心地よさを感じさせる。来る者は拒まず、去る者は追わず。そんな負荷のかからない距離感が好きなのだろう。よくSNS疲れとかいうけれど、それはフェイスブックとかインスタグラムとか何かを強要するような空気感のある媒体だからじゃないかな。それは拡張された社会なのであって、だから疲れてしまうんだよ、と思う。同僚疲れとか家族疲れとかあるように。

 こうやって、好きなもので繋がり合うような緩やかな共同体が広がれば、みんな損しなくなるのになぁと思った。それが文化を持った人間の目指すところだと思うのだけれど。