方向

 現代社会で最もおかしいことは、普通の人たちは、65~80歳の間をいかに悠々自適に暮らしていくかということを目標として生きていることだと思う。

 だって、普通に考えておかしくはないだろうか。そもそも、その年齢まで生きているかわからないし、生きていたとしても、まともな頭を保っていられるのか自信がない。そうでなかったとしても、体力は衰え、体に不備がある可能性の方が高いだろう。なぜ、そんな老後をまともに暮らすなんてことを考えて、そのために若い頃を犠牲にしているのか、わからない。よく、老後の心配をしていると、安定志向が高いかのように喧伝されているが、むしろ、その逆で、ギャンブラーじゃないかといつも思っている。自分が健康で生きていられることに賭けている。ベッドしているのは、自分の人生だ。ちなみに、リターンが入ってきたとしても、十年ぐらいで死にます。

 だから、僕は社会に入ってまともな人生を歩むことが出来ない。だって、前提がおかしいのだもの。みんな、その意味のわからないハイリスク・ローリターンの道を歩もうとしているのだもの。

 その一方で、僕は一部のちょっと極端な思考を持つ人々のようには振る舞えない。彼らはノーフューチャーの考え方が一貫している。あるいは、自分のわき出る欲求に従って、どこまでも走っていける。僕には、そんな欲求がないし、無職でいられるような才能もなかった。

 僕は、なにを目標にして生きていけばいいのか、わからなかった。

 僕は物語が好きだが、それに接するのは、どんな方法でも生きながらえればいい。図書館に行けばいいし、ちょっと金が余ったら、ネトフリに入ればいいから。金を稼ぐ必要はなく、それゆえにやるべきことが定まらなかった。

 

 しかし、昨日、妻に気付かされた。僕は、その誰でもない、自分に最適な人生を求めて、歩けばいいということに。わかってしまえば当たり前のことだが、僕はどうにかして、目標地点を定めるか、気のままに歩んでいける強さを手に入れるかしないといけないと思っていた。だって、調べて出てくるような人生を歩んでいる人は、大抵そうなっているから。普通の人は(たとえ間違っていたとしても)家族に見取られて死ぬ老後を目標にしている。才能のある人は、己の衝動に従って生きている。だから、目標か衝動を手に入れなければと焦っていた。

 けれど、違うのだ。凡人と天才の間には、無限の段階があって、そこはアナログなのだ。だから、先人たちの人生を調べて、ここ、という風に、位置を定める必要はないのだ。僕みたいに、普通に生きていくことは出来ないけれど、才能はない人が辿り着く場所を目指して、試行錯誤をすればいいのだ。

 つまり、目標も欲求もいらない。方向があればいい。

 僕はこれで、歩き始められると思った。ようやく、道が定まりつつある。膨大な時間を生け贄にして。