あの世で会えるみたいな奴

 ほとんど病気のようだとわかっているけれど、ご冥福をお祈りしますとか、あの世で会えるみたいな話は嫌いだ。人間が今まで積み上げてきたものを否定されたような気持ちになる。

 そもそも、それが出来ないから、皆は苦しみながらも生きているわけだし、一所懸命なわけでしょう。あの世みたいな概念が実在するなら、それはそこで頑張ればいいのだから、それでいいはずなんだ。そもそも、脳に僕たちの意識といったものがないと言うのなら、どこが考え、どこが思っているのか。本当にアホじゃないかと思っている。

 特に僕が嫌いなのは、老人が子供にそのような概念を植え付けている瞬間だ。こんな話がある。『私が火星を周回しているティーカップがあると訴えても、現在の望遠鏡の性能では、それが本当に無いのか証明することは出来ない。しかし、誰もがそんなことはあり得ないというだろう。だが、子供の頃からそれを教えられ、日曜日になるたびに祈るように言えば、実在しないことを証明しなければならないようになる』これは有名なラッセルのティーカップという話だ。或いは、オッカムのカミソリを持ち出しても良い。所謂、オカルト、魂とか気とかは大抵、これに反論することが出来ない。あり得ない話を導入し、それが事実だと盲信するのであれば、別の盲信を同等に扱わなければいけなくなるのだ。空飛ぶスパゲッティ・モンスターは、その本質において、唯一神と変わらないのだから。

 こういうことを平然とやってしまう大人に、僕は忌避感を覚える。その大人が何も考えないままに生きているということをまざまざと見せつけられてしまうからだ。この世はままならない。明らかに間違っていることが溢れ、事実は見過ごされる。だから、僕はこの世界に本質を見いだせず、物語に逃げている。