誰かが怒っていると萎縮してしまう

 特に僕が幼い頃、父は非常に怒りっぽかった。還暦に近づいた今ですら、短気で頑固である彼に若気が足されているのだから当たり前である。僕には弟と妹がいるが、その両者を足した数よりも確実に怒られているし、殴られている。そのせいか知らないのだけれど、僕は誰かの怒鳴り声を訊くと、反射的に体が萎縮して、心臓の鼓動が跳ね上がってしまう。

 小学生になったぐらいで、他の人よりも強く反応が出てしまうことに気付いた。よく、君を怒っているのではないという旨の言葉をいただいたものだ。別に勘違いしているわけではなく、怒声自体に忌避感があるというだけなのだが。

 ゆえに、この部分はわざと克服しようとしていた時がある。怒られるようなことをしたり、恐そうな人にガンを飛ばして、絡まれても謝るのではなく、反抗したりして。そのせいで、だいぶ慣れてきたのだけれど、それでも根幹的な恐怖がまだ残っていることにたびたび気付いて絶望する。

 ああ、幼少期のトラウマは何年経っても完全に消滅することはないんだと。僕はこの程度で済んでいるけれど、もっと致命的な人々が犯罪に走ったり、自殺に追い込まれたりするのはよくわかる。それはもう、不治の病に近いものだ。

 そういうことがわかっていながら、この家族という欠陥システムを運用し続ける社会に対して、悲しいやら虚しいやら負の感情が芽生える。どうして、問題を放置しておいて、ごく一部の人だけが利益を享受できるシステムのままにしておくのだろう。まあ、これは家族に限った話でもないしね。得てして、既得利権を持っている層が、システムの変更権を持っているものだ。それは変わるものも変わらないよ。