A×B=幸せだとするならば、貴方なら何を代入しますか

 そんなネットの記事をこの間見た。コメント欄にはつまらない答えばかりだったけれど、記事の内容には興味深い答えがあった。それはいいこと×悪いことというものだ。実感としては、僕の答えはそれに近い。良いままであったり、悪いままであったりすれば、それは幸せを感じられないと思うからだ。

 ただ、その場合、問題がある。幸せという言葉の定義付けだ。僕の感覚で言えば、この幸せという単語は広義すぎて、異なる概念、感覚を含んでいるように思える。たとえば、人がよく言う平凡な幸せ――ふとした日常に感じる幸福感と、一世一代の賭けに成功した時の幸せは違うものだろう。そんな問題はあるけれど、これは喜劇/悲劇的単語と辞書を作るわけにもいかないように、定義分けも難しいはず。万人に適用できるとも思えないしね。

 この設問は、僕にとってかなり良くないと思う問題を孕んでいて。それはつまり、幸せなんてものは主観でしかないって問題なんだよね。僕にとって、主観に全てを委ねているものの全ては問題でしかない。主観なんてものは再現性がないし、汎用性がないし、問題を引き起こすからだ。錯覚を引き起こす。たとえば錯視ならば、客観的なデータを元に誤りであることを証明できるだろう。しかし、主観に完全依存する幸せならば? それが錯覚であろうとも、本人が正しいと思っている限りは正しくなってしまう。そして、それであるがゆえに、何をしても良くなってしまう。本人が狂いさえすれば、この世の全ては幸福たりえるのだ。幸福に生きよ、という言葉はその実、僕にどんな道も示してくれなかった。そもそも、そんなことを考えている時点で幸せになんてなれないのだろうな。幸せは掴むものでもなく、考えるものでもなく、思い込むものなのだから。

 AとBの答えは、僕ならばこうなるのだろう。思い込みと無知だと。