ノベルゲームに関して

 僕はずっとゲームが好きだったんだけれど、その理由の一つがシナリオだった。FF7なんかのRPGをプレイしている時にはよく思ったものだ。戦闘たるいなぁ、ボタン連打してれば、さくさく物語が進めばいいのに、と。あるんだなぁ、これが。最初出会った時、それがまず、印象的だった。

 それが、ノベルゲームである。

 それは紙芝居と揶揄されることもある程に一本拍子で。しかし、多彩なシナリオを紡ぐノベルゲームを僕はすぐに好きになった。

 

 最近、革新的なノベルゲームは革新的なシステムがあるという話を訊いて、久しぶりにノベルゲームについて調べ直してみた。言及されて初めて気付いたことなのだが、確かに僕が革新的だと思っていたシナリオは、シナリオ単体ではなくて、システムによるものなのだ。

 

 その進化の過程の説明も非常に面白かった。

 まず、始めにノベルゲームは純粋なストレートなアドベンチャーゲームとして生まれた。失敗は即バッドエンドとなる。障害をクリアしていく。それはマリオのようなアクションゲームと同じ構造を思っている。

 次に、シナリオが分岐し始めた。特に「かまいたちの夜」は(恥ずかしながら未プレイなので深く言及できないが)フラグ管理をなくし、プレイヤーの知識が増えていくことによって、真のエンディングが達成できるという仕組みになっていた。

 次は、マルチサイトだ。複数人の視点を取り入れることによって、物語の幅は大きく広がったが、同時に完成度の高いシナリオを作るのが難しくなっていった。

 可能性が広まるということは、それだけ、物語を効果的に魅せることが難しくなってくるということだ。そのため、フラグ管理を徹底し、プレイヤーのたどる道を制限していく手法などが考案された。

 そして、「ひぐらしのなく頃に」。これはループもので分岐ものなのだが、その分岐の順番は作者によって決められてしまっているのだ。しかし、そのおかげで最も物語としてよい順番にみせることができる。ある意味で、プレイヤーの存在を否定しているのだが、これは上手くいった。

 

 上記のようなことを言っていた。そして、その通りだと思う。

 シナリオの完成度と自由度のジレンマには悩まされるようだった。

 あと、面白いなと思ったのは、普通、プレイヤーはさほど選択肢に意味を感じないというところ。手段がどうであれ、良いエンディングにいければ良い。その点で、エロゲーやギャルゲーはそのルートに行く必要性が生まれるという。しかし、同時にそれは試行の過程で、プレイヤーの意志に反すること(たとえば、好きなAというキャラではなく、Bというキャラに告白すると言ったような)をしなければならないということでもある。

 また、選択肢があるがゆえに、正しい選択があるはず=みんなが救われるトゥルーエンディングがあるはずという意識に繋がりやすいと。

 主人公は選択肢が見えていないから、それをギミック(メールの返信など)に代用して、プレイヤーと主人公とのシンクロを高める試みがあるという話など、非常に興味深い話も聞けた。

 

 これらを聞くと、まだノベルゲームには先が、可能性があるな、と感じられる。その余地を研究したいなぁという気持ちがある。