感情と理性に関して

 別にどこかに書くというわけでもなく、僕はいつも物事を考えていて、だいたいは自分の中で感情と理性の結論が一致していないものをすり合わせたり、何か決めたいのにその理由がないものの理由を考えていたりする。そして、結論が出た時に、妻に話してみて、その考えに穴がないか聞くことをよくしているのだけれど、いつも、なに当たり前のこと言ってるんだこいつみたいなリアクションになってしまう。そりゃ、結論を知っていれば当たり前だと思うかもしれないけれど、その当たり前を手に入れるためにはかなりの試行錯誤が必要なのだ。それを話したら、重い、と断じられてしまった。

 重い、のだろうか。

 たとえば、感情が何かをしたいと言っていて、それに従っているとしても、次第に僕の理性が文句を言ってくるのだ。それに意味はあるのか、虚無感は抱いていないのか、どうして、それでなければいけないのか、なんてことを。そうすると、一度は理性に負けて何も出来なくなってしまったりする。けれど、感情が再び何かをやりたがってくる。そんな繰り返しになってしまう。ここを抜け出す方法は一つしか無くて。つまり、感情が本当は何を欲しているかを知り、理性的にそうである理由を固めるしかないのだ。だから、僕はよく何かを考えている。ゆえに人の話を訊いていないことがある。ごめんなさい。

 だけれど、僕にとって、このプロセスは必要なものなんだ。そうでなければ、たちまち虚無感の絡め取られて無気力になってしまうから。みんなはそうではないのだろうか。思うがままに、考えるがままに動いているのだろうか。そんなことはないと思うのだが。

 それを妻に聞いたら、『確かにそうだけれど、そんなことを言ったら、死んだら全部無駄じゃんってことにならない?』と聞かれた。だから、それが問題なのだと言ったら、『それはその通りなんだけれど、そう聞かれたら、いずれ死ぬから待ってろよって言うことにした』と言っていた。そして、これは名言だと楽しそうに笑う。そうだな、僕もそう思うよ。どうせ死ぬのだ。そして、死んでしまったら、生き返ることはないのだ。

 だから、僕はいずれ死ぬ。けれど、それは今ではない。死なない理由としては、それで十分なのだろう。