感情的な虚無感に関して

 僕は普段から、人生は虚無に包まれていて、何もすることが出来ないといったような主張をする。それに関して、気付いたことがあった。僕のように理論的に考えて、人生が人類が世界が虚無だと気付いているのに、それを気にしていない人間もいるのだ。たとえば、妻のように。死への恐怖と虚無感は同一視すべきではない。そして、理論的に虚無であることと、それに対して虚無感を抱いてしまうことも分けるべきだと気付いたのだ。

 思えば、僕はこの人生諸々が完全に虚無であると結論付ける前から、この胸に虚無感を抱いてきたのだった。どうしてだろうと、自分の人生を遡ると、それらしい回答が得られた。

 僕は生まれが4月に近いせいか、あるいは早熟だったのか、やれば何でも出来る子供であった。テストは満点だし、運動神経は今は悪いが当時は並以上ではあったことを覚えている。そのせいか、僕は何もしなくても何でも出来る子だと言われてきた。ここまではいい。ただ、その次が問題だ。これは小学生当時に僕がもらった手紙からも証明できるのだが、両親はそこからこう考えた。何もしなくても何でも出来るのなら、努力すればさらに出来るに決まっている。だから、彼らは僕がどんな成果を出そうが、そこに努力の欠片が見られない場合、大したことでないように振る舞った。そして、さらに努力するように要求してきたのだ。だが、待って欲しい。僕はまだ子供で、周りから言われる、何も努力せずとも何でも出来るという評価を真に受けていて、それを唯一のアイデンティティーとしていた。だから、僕は努力するとしても誰にも気付かれないようにするようになったのだ。そして、成果を出しても、案の定、褒めて欲しい人には褒められやしない。天才だと言われようが、世界大会に行こうが、何をしようが埋まることはなく、次第にその欲求自体がなくなり、虚無感だけが残った。

 さらに言えば、環境も悪かった。金のなかった僕の勉強環境は学校のみだったのだが、小学生のテストと言えば、満点がデフォルトになるように構成されている。だから、僕は常に満点で、それ以上が望めなかった。努力が結果に表れないのだ。対してレベルの高いところにもいなかったから、僕以上の相手が出てくることもなかった。

 次第に、何かを努力することは無駄で、そんなことをしなくても成果は付いてくるという考えが僕を浸食していった。それは歳を取っても変わることはない。大したことをせずとも、周りの言うシアワセなものは手に入れることが出来たし、本当に欲しいものはどんなに努力しても手に入れることが出来なかったから。

 

 きっと、これが僕の感情的な虚無感なのだと思う。人生は、人類は、世界は、確かに虚無だ。それは理論上、そうなっている。けれど、僕は感情的にそれを受け入れることができる時が来るかもしれない。だから、こうやって、自分の感情に向き合っていくしかないのだろう。僕の世界には僕しかいないのだから。