世界の果てまで旅したい願望に関して

 昔から僕は、世界の果てまで旅をしたいという願望がある。人類がほとんど滅亡してしまった後ならなおのこといい。「少女終末旅行」はその実、僕の願望そのものと言って良かった。いつからそんな歪んだ願望を持ったのだろう。今となっては思い出すことも出来ないが、この思いが明確な形を持ったのは、「旅に出よう、滅びゆく世界の果てまで。」を読んでからだと思う。

 元々、どこか、あまりにも遠い場所を目指して旅に出たいという気持ちがあった。それは概念のような場所でも良く、辿り着く前に死んでも良い。実在しない場所でもいい。ただし、僕自身はそれがあると心底望んでいることを条件にしたいと思う。そのきっかけは、「ザ・ギバー 記憶を伝える者」を読んだせいだと今ならわかる。この僕が今では考えられないことに活字嫌いだった頃、読み始めた小説がこれと「合い言葉はフリンドル!」であった。両者ともに強い影響を受けたが、どこかわからない場所を目指す旅がとてつもなく格好いいもののように思えて仕方がなかったのだ。

 滅亡した世界は、どこから来たのだろう。たぶん、僕は常々、他人が存在しなければいいと考えていて、そこから派生した理想の世界ということなんだろうと思う。あるいは、僕が生きる理由を考える時に良く仮定する条件――この世に他の人間がいなくなったとしても、それは有効か――という思考実験から来ているのかもしれない。僕はよく、こういう極端な条件を仮定して、その強度を測ることがある。手足が少しも動かなくなっても、明日必ず死ぬとわかっていても、とか。

 きっと、自分だけの目的があって、毎日が自由でいて、それでも目標に向かって進んでいくことができる。たびたび、トラブルはあるけれど。そんな要素の全てを、僕は望んでいるのだと思う。人生に目的がある、自由がある、退屈はない。僕が望む全てと言ってもいい。本当はそんな人生を歩みたいと思っているんだ。それでも、何かが僕の邪魔をして、理想通りの生活を送らせてくれない。それは僕の中に蔓延り、残り続けている常識だったり、固定観念だったり、臆病さだったりするのだろう。

 今年こそは、そんなくだらないものは投げきって、やりたいことをやっていきたいと願っている。去年もそれを誓ったことを覚えていながら。