相互理解に関して

 僕は他人と相互理解なんて出来ないと考えている。

 だってそうだろう。遺伝子が違えば、育ってきた環境が違い、置かれている状況が違う。貴方の言うことがわかるというのは、理解が出来たとか、同情するだとか、似たようなことを考えているということしか意味しない。そのものが本当に理解できたはずがないのだ。

 何度だって、この人ならと思って、何度だって、裏切られてきたのだから、流石に学習する。でも、理解し合えると思い込むことがいけないのだ。原理的に考えて、相手の考えなんて理解できるはずもない。自分自身でさえ、それが揺らぐことすらあるのだから。

 しかし、その理解が比較的重なり合っている人間と、そうでない人間は存在する。今まで生きていて、どういうことを考えてきたのか。そして、どういうことを考えているのか。どういう結論に至ったか。それが近い人間とは、やはり、コミュニケーションが取りやすい。逆に全く被らない人間同士は、それこそ文化的な宇宙人なのだから、ほとんど交流することが出来ないだろう。もちろん、同じ人間である以上、相当極端な例同士で無ければ、重なり合うところが皆無なんてことはあり得ないだろうが。

 創作は、ある意味でそれを利用していると言える。

 一般的に、家族や恋人と行った原理的な理由を持った主人公を用意すべきだと論じられるのは、それが原因だ。多くの人にとって、それは重なり合う部分になる。

 ならば、その逆も言えるのではないかと僕は思っている。

 好きな作品が被るのであれば、似たような考えをしているし、逆の感想を抱いた作品があるならば、その作品のテーマに関しては真逆のことを考えているのかもしれない。好きな作品は、その人の鏡になる。

 だから、僕は首に好きな映画を三つぶら下げさせろと主張しているのだけれど。もちろん、これには大きな問題があるのもわかっている。が、そうならもっと話の糸口がつかめるかな、という気持ちがその主張をさせている。もっと、映画の話をしようよ、みんな。仕事の話なんかじゃなくてさ。

 ああ、また話が脱線している。

 要は、相互理解なんて原理上、不可能で、誰かの理解者になんてなれないし、僕の理解者が現れることはないのだろう。僕自身だって、僕のこと、わからないし。でも、それで良いと思うのだ。僕たちはわかり合えない。だから、比較的わかり合える相手と一緒にいたいと思う。話したいと思う。遊びたいと思う。そうやって、日々を過ごしていけたら、もう少しだけ世界は楽しいところになるのだと思いたいな。