人間関係について

 こういう人、結構多いらしいんですけど、僕はリセット癖がある。これは環境が変わる時に人間関係を一気に精算し、新しい関係を始めてしまうということを意味する。識別は簡単で、どれだけ古い友人が残っているかを測ればいい。僕は妻を除けば、最古の友人が一年前くらいからの付き合いということになってしまう。縦にも横にも狭い交友関係しか持たない。それもそのはずで、基本的に所属している組織を離れてしまうと、一切、連絡は取らなくなってしまうのだよね。どんなに仲が良かろうとも。

 なぜなら、僕は基本的に人間関係が嫌いだったんです。

 何故かと言えば、僕は生来から、あるいはかなり幼い頃から、一人でいるのが好きな人間だからとしか言えない。友人と一緒に下校するよりは、一人で下校してその間に妄想していることが何よりの楽しみだった。遊ぶ約束をしてしまうと、家で一人遊びが出来なくなってしまう。それが本当に嫌だった。

 それだけならば、問題はない。一人でいれば良かっただけだ。

 ならば、なぜ、一応関係は築くのか? 答えは簡単だ。問題は僕の両親にある。彼らは、本当は寂しいのに、人と上手く付き合えないから、一人でいるタイプの人間だった。それ故に、僕に友人がいるかを、彼らは常に気に掛けていたし、その監視を僕も意識していた。だから、学校やバイトといった組織で浮かない程度の友人を無理矢理こしらえることになった。それがどんなに苦痛だったことか。

 そもそも、僕は少しアレなせいで、あるいはオタクであることも手伝って、人間としてのプロトコルが一致する人間になかなか会わない。合わない人間とは何を話しても、何をやってつまらない。根底的な考え方が違うし、興味を持つものも異なる。一緒にいても、別れる時間を今か今かと待ち構えていて、退屈さを隠せなかった。

 だから、僕にとって友人関係というのは必須条件であり、コストであって、自ら行うものではなく、強制されるものだった。だから、その組織から抜け出せる時、クラス替えや卒業などで、関係はすぐに切れる。せいせいとした気持ちで連絡を絶っていったのを覚えている。大学生になって、人と親しくする必要がないとわかって、どんなに嬉しかったことか。

 おかげで、僕にとって最も遠い言葉がこれだった。

「友情は見返りを求めない」

 ならば、僕がこの間まで築いていた関係は友情ではなく、交渉関係とでも言うべきもので。そして、事実としてそれは的を射ていた。

 何かをしたら、それだけのリターンがあることを期待する。僕にとって、家族や交友関係はギャルゲーの好感度上げのようなものだった。

 

 それが今、ようやく変わりつつある。

 妻を始めとして、プロトコルが一致する人間と次第に会えるようになってきたのだ。絶対数が少ないせいか、まだ現実がきっかけになって出会ったことがあるのは妻だけだが、ネットを介して繋がってきた人々が増えている。

 正直、驚いた。

 プロトコルが一致する人と一緒にいて、遊び、話をすることが、こんなに楽しいことなのかと。

 それは、皆、友人を持つわけだ。その輪の端で嫌そうな顔を浮かべてる奴は――つまり、僕だけど――なんなのと思われてしまうさ。仲の良い同僚がいれば、仕事もつらくない。それは決して、強がりや洗脳ではなかったんだな。

「友情は見返りを求めない」

 その意味が、ようやく理解出来た。確かにそうだ。僕は今の友人に見返りを求めていない。もし、なにか騙されたり、利用されたりしても別にいい。構わないと思っている。何かしらのコストをかけて、それに見合わないリターンしかなくても、問題は全くない。なぜなら、僕が積極的に関わっているのだから。自ら、関係を結びに行っているのだから。それでも、楽しかったと思えるから。

 

 実は、この文章群もそんな活動の一環である。

 あるサイトで、こんな記述を見つけた。大衆に迎合出来ない不適合者は、自分を公開していって、アリジゴクのように自分に興味を持つ人間を待つしかないと。確かに、その通り。マニアックな専門店なんかが地方でも成立していたりするのと同じだ。特殊な人は、そうとわかっていても、興味を持つ人を待つしかない。

 だから、僕は僕が考えていることを、へたくそながらに垂れ流している。

 独り言の延長みたいな文章になってしまっているから、読みにくいのは、本当に申し訳ないと思っています。