「さよなら絵梨」の感想

 「ぼくのエリ」、あるいは「モールス」は観ていない。観る予定だが、それにより、自身の感想が変わる可能性があると考え、今のところの感想をまとめようと思った。ゆえに筆者の意図を読む精度は低いと思う。しかし、精度の低い感想がそれはそれとして、気付きを齎すこともあると考えている。

 

 まず、どこまでが撮影なのか、つまり、フィクションなのか、という視点だ。特にクライマックスにおける展開では意見が分かれると思う。僕の今の考えでは、クライマックスは(ある意味では)作品の中ではない、という立場を取ろうと思う。絵梨は本当に吸血鬼である、ということだ。しかしながら、もちろん、建物を爆破するのが現実に起こったことだとは思っていない。この辺の感想を詳しくまとめようと思う。

 

 初めに、全てフィクションである、という考えがある。絵梨は吸血鬼ではない。クライマックスシーンは撮影されたものであって、未来の主人公役は主人公の父親がやっている、という考えだ。個人的にはあまり支持できない。

 第一として、アングルなどがそれまでのものと変わっている。つまり、漫画内で明確な区切りが存在する。今までは主人公が撮影したものという辻褄があるような絵だったのだが、ここから(というか吸血鬼としての絵梨がいるシーン)は明確に撮影者が別に存在する(もちろん、これによって、結果として主人公が撮影者に回っている、と考えることはできる)。また、絵の作りもより良くなっている。絵梨と一緒に映画を観ることで上達した、と考えることはできるが、あまり納得がいかない。

 第二に、当時の主人公が(あるいは絵梨や父が助言をしたとして)あのような脚本になるのか、ということだ。その人生はあまりに実感のあるもので、クライマックスの主人公(とされる人物)の表情も真に迫っている。このようにするだろうか? そもそも、主人公の父親とは顔が異なる(もっと若い)ように見えるし、食事のシーンでは父親が本業の役者には程遠いことも描写されている。これらと矛盾する。最後に2人が別れるのも、当時に発想できたことだとは思えない。

 第三に、実際に場所が古くなっている。荒廃の具合が進んでおり、それらを加工したとは考え難いのではないだろうか。

 第四として、そのようにする作品上の意図が感じられない。こうなると、結局は全てがフィクションである、というような形になってしまうような気がする。真に迫ったものではなく、ある種のチープさが感じられ、作品から得られる真に迫った様子が薄れてしまうように思う。作中的な目的としても良くわからない。もちろん、それは主人公が監督した作品の味だと言われてしまえばそうなのだが。

 だらだらと思ったことを書いたが、基本的にはクライマックスは(少なくとも作品中では)本当のことであり、あの爆破は心象風景的な演出であると考えている(そのような演出が出来ることも、漫画の特徴の一つである)。ファンタジーがひとつまみ必要なのだ、というテーマも、これでは少しぼやけるだろう。全てがファンタジー(フィクション)なのだから。絵梨が病気だ、母親が死んだ、ということまで演出ということにも出来てしまうし、結果として全てが曖昧になってしまう。

 

 では、なぜ、絵梨と再会できたのに、その隣に座ることはなかったのか、そして、どうして、再編集を続けていた理由がわかったのか、ということについて感想を書いていく。

 そのためにまず、主人公の編集者(監督?)としての能力について考えていく。彼は、カットを使用して、より良い側面だけを切り取り、残す能力がある。そして、そこにひとつまみのファンタジーを入れてしまう、という癖がある。これは、『理想』に関する能力であると僕は考える。現実の人物の『理想』を描く能力、爆破やドラゴンの頭といった『理想』を付け足してしまう癖、という考えだ。

 結果として、作中作としての『さよなら絵梨』は絵梨の理想を切り取ることができ、評価を受けた。しかしながら、本人は納得がいかず、何度も編集を繰り返すことになる。

 ここで考えて欲しいのは、母親のドキュメンタリーは再編集していないということだ。理想の母を描き、それを爆破した映画は再編集せず、理想の絵梨を描き、それが吸血鬼であるとした映画は再編集を繰り返す。その差は何だろうか。僕は、主人公が母親のことが嫌いであり、絵梨のことが好きである、という点が大きいと考えている。映画に残っているのは、理想の絵梨であり、それは主人公が好きになった人物とは異なるのだ。眼鏡もかけていないし(そもそも吸血鬼に必要なの? という話はある)、性格も違う。つまり、映画を観ても、本当の絵梨には会えない。そして、そうではない、理想の絵梨(映画)の方が評価されてしまっている。そういう状態にあるのだ。だから、彼は再編集を繰り返すことによって、絵梨と共にいた時間を繰り返し観ることができる。

 そして、それこそが、甦った絵梨の隣に座らなかった理由であると考える。

 つまり、クライマックスの絵梨は、あの映画を観ることによって、理想の絵梨としての記憶と性格を手に入れている。同時に、理想の主人公を観ている。現実の絵梨ではないし、現実の主人公を想っているわけではない。だからこそ、主人公が求めていた絵梨ではないし、彼女が求めている主人公でも主人公はないのだ。

 だからこそ、『うん…素敵な事だ…』という台詞とその表情に繋がるのではないだろうか。その時の絵梨の表情、去っていく主人公とそれを見る絵梨の表情や台詞にも合致する解釈であるように思える。

 最後にそれを爆破で吹き飛ばしたのも、色々なニュアンスがあるだろう。ただ、僕の考えでは『ひとつまみのファンタジー』としての表現である。そして、それは人が生きる理由でもある。つまり、理想が、希望があるから生きられる。それは想い人が本当は吸血鬼で生きていた、というような。あるいは、映画のようなフィクションが現実を切り取り、理想の部分だけを見せるような。

 だから、彼は絵梨の隣に座り、現実の(そして老いた)主人公を見せることで、彼女の中の理想を破壊することを選ばなかった。そういうように思うのだ。

 

 まあ、とりあえずは、こんな感じだろうか。意見が色々と出るであろう、クライマックスだけに焦点を当てて。

 全体的に創作(『ひとつまみのファンタジー』)讃歌であるとも考えられるので、やっぱり、作中の全てがフィクション(まあ、現実からみれば全てがフィクションなんだけれどさ)だとは考えにくいとは思うけれどなぁ。映画観て意見変わるかもしれないけれど。