「ボバ・フェット」の感想

 「ボバ・フェット」(「The Book of Boba Fett」)が良かった、という話。

 

 下敷きにあるのは、マフィア映画・SF・西部劇と言った要素なのだけれど、それとボバ・フェットの変化を主軸に入れて、そのサブエンジンとして、「マンダロリアン」シーズン2.5をやっている、という感じの話だった。

 ボバ・フェットは、まあ、色々とあった(「クローン・ウォーズ」とか)けれど、結果として、父の仇であるジェダイは滅び、父の後を追って、その境遇もあり、最終的に賞金稼ぎとなった。そして、そのキャリアの絶好調(ライバルであるソロを出し抜き、ジェダイとならんとするルークと戦えたのだから)で、不意を突かれ、サルラックの中へと放り込まれてしまう。

 そこで、誰かに救われたわけではない。

 時系列は明確には不明だが、かなり後になって、自力で脱出することになる。

 その後、タスケンに拾われ、なんだかんだで世話になって、そして、ボバ・フェットは組織を、もっと言えば疑似家族の強みを知ることになる。

 最終的にタスケンは滅ぼされてしまったが、フェネックを助けた後、彼はもう賞金稼ぎでいることを止めると宣言する。使い古されるのはごめんだ、と。そして、彼は自身の家族を、ファミリーを作り上げようとする、というのが「ボバ・フェット」の話だ。

 そこで、ボバ・フェットは空位になった大名の座を使って、何とかやろうとするが、あまり上手くはいっていない。ここで、良くある後継者がなめられる、という話をなぞっていながら、マフィアそのものを自力で創り上げる、というマフィア映画にはあまり見られない話も同時に行っている。

 そして、その成果として、クライマックスがある。

 なんだかんだで、ボバ・フェットは回りに助けられて、街を守ることに成功し、名実ともに大名となることができた。

 

 ここで象徴的なのは、キャド・ベインとの戦いだ。彼はジャンゴ・フェット亡き後に銀河一の賞金稼ぎとなった人物で、その実力は折り紙付きだ。彼は敵の勢力に付く。また、彼とボバ・フェットは師弟関係になる、という没エピソードがあったり、と色々と因縁が深い相手だ。

 キャド・ベインはボバ・フェットに、老いた、という。ボバ・フェットは変わるものだ、と答える。お前もそうだと。しかし、キャド・ベインはお前よりはまだ速く動けるという。つまり、キャド・ベインは変化を否定しているのだ。未だに賞金稼ぎであることからもわかるだろう。彼は「クローン・ウォーズ」の時から、金さえもらえればどんな勢力にもつく(結果としてジェダイと敵対することが多いが)というキャラクターであり、それは「ボバ・フェット」においても変わらないのだ。しかし、ボバ・フェットは異なる。変わる決意をし、実際に変わろうとしている。

 その結果は、クライマックスの勝敗に表れている。ボバ・フェットはタスケンの武器と技術によって勝利するのだ。それはキャド・ベインが教えていないことであり、不意を突かれたものであるのと同時に、賞金稼ぎの技ではなく、大名としての技で勝ったということもできる。

 西部劇の一部、アメリカン・ニューシネマの犯罪映画などでは、主人公たちが破滅して終わるものがある。ある意味で、これは主人公が死ぬ、という結末を映しているだけではなく、西部劇自体の終焉、というものを描いている、と個人的には思っている。

 そのモチーフを、「ボバ・フェット」でも使っている。しかし、それは敵の立場であり、キャド・ベインに対してだ。つまり、帝国は崩壊し、賞金稼ぎが主流の時代は終わった。しかし、それに執着し、過去の強さを信じたキャド・ベインは負けた。大名となったボバ・フェットは勝った。

 この構図こそ、「ボバ・フェット」が西部劇やマフィア映画を下敷きとしている意味だと思ったし、その二重性がとても良いと思った。