「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」の感想 パート1

 土曜日に観て、このキラめきに打ちのめされて死にそうになったので、今日も観に行ってきた。結果として、色々とまとめられるレベルになったと思うので、簡単にまとめたいと思う。

 

 なお、ネタバレを含むというか、ネタバレしかないので注意。

 

 

 

 

<構成>

 まず、ここから話そうと思う。ここがまず、素晴らしいと思う。総集編の映画を観た時に思ったのだが、もちろん、それはTV版の尺を想定しているからなのだが、尺が足らないなと思ってしまった。ちょっとした描写やディティールがないと、上手く盛り上がらない。なので、今回は、愛城華恋という一人にかなりフォーカスを当てていて、他の人は進路について決意を新たにするという程度になっている。

 構成としては、まず、ホットスタートというか、アバンがあって、順当にスタートし、前提としての進路の話が出てくる。この時点で、テーマがすでに提示されており、今後変転はない。特に、華恋の将来が白紙であるというのが、一番の課題となる部分で、ここに答えが出ると、この映画は終わる。

 そして、各レヴューの間に、愛城華恋の過去、ディティールが出てくるという構成を取る。愛城華恋はTV版では落ちこぼれのような扱いを受けていたのだが、当然ながら、この学校に来ている時点でエリートである。彼女の詳細を描くことによって、結果として他の生徒たちの背景が描かれることにもなる。

 この思い切った構成がとても良いと思った。

 

 さらに、TV版では、『オーディション』が舞台になり、『一人にキラめきを集める』というテーゼがあったからこそ、愛城華恋の『二人でスタァライトする』というのはアンチテーゼで、しかし、観客は舞台を望む、という要求に対し、『二人で奪い合いそれを許容する』というジンテーゼを手に入れるわけだが、今回はそうではない。

 『オーディション』(=学校の世界)ではなく、『ワイルドスクリーンバロック』(弱肉強食の世界)であり、そうなると、立場が一転する。『独り立ちできるだけの強さがいる』という問いに対し、『二人でスタァライトする』は答えにならず、むしろ、舞台を観ていない、ひかりしか見えていない、というのが逆に弱みになってしまう。この強さの逆転が素晴らしいと思う。「ブルーピリオド」の受験美術と、美術学校の関係を思い起こさせる。

 むしろ、これは学校と社会のギャップとも呼べるものであり、芸術に関係なく、普遍的なものなのだ。

 

 つーか、この時点でヤバい。他人のIPだし、普通なら、無難に次のスタァライトを書いて、そこに干渉するキリンで、新たなるオーディションとするでしょう。合わせて卒業式を描けば、無難に皆が涙する。しかし、そうしない。今度は『オーディションではない』とする気概だ。スタァライトを超えるために、それが必要だったのだろう。そういった、制作陣の判断は素晴らしい。

 

 

<モチーフ>

 作中で全般的に出てくるモチーフを簡単にまとめる。後述するが、一つのモチーフに複数の意味があるため、読み取りにくくなっているという側面があると思う。

 

・電車

 まあ、これは日常とか、学校とか、そういうレールに敷かれたもの。

 一度学生になってしまえば、次の学年は自然とやってくる。電車は次の駅へ。では、舞台は? 舞台少女は? 答えとしては、次の舞台へ、となる。

 また、パンフレットによれば、皆が共感できるもの、乗っているものだから、とのことである。最も一般的な車両をモチーフにしているとか。

 

・トマト
 主に、三つの意味合いがあると考えている。

 一つは、血肉であり、肉体である。これは死を暗示する時にトマトが弾けたりすることからもわかる。赤色の液体を持ったもの。次と被っているが、学校の中、あるいは、作品の中、という血肉のない理想的な世界から、踏み出して肉体の伴った世界へという変遷が描かれている。

 一つは、禁断の果実である。弱肉強食の法則から守られている楽園(=学校)から追放され、一人で生きていかねばならない。『再生讃美曲』にも、エデンの果実が歌われている。そこでは、幸せの象徴とも扱われている。

 一つは、糧である。栄養であり、舞台少女が燃えるために必要なものだ。そして、これは観客から渡され、あるいは、観客(=キリン)自体が燃料でもあるのだ。観客は時に残酷にも次の舞台を望むが、同時にそのための糧も提供する。自らの身を捧げて。

 

・ポジションゼロ

 T字の奴。これも三つの意味合いにまとめられるかなと。

 一つは、TV版から引き継いだものであり、舞台の中心である。これは、舞台の頂点でもあり、これを追い求めて戦い合うのが、『オーディション』である。ただ、この作品は『オーディション』じゃないんだって、というわけで、あまりこの意味では使われていないかなーとも。

 一つは、ゼロからの場所、スタート地点の意味。これは星見純那と大場ななの戦いなんかを観ればわかりやすいと思う。純那は勝利する時に、ポジションゼロを踏み抜いて、その先へと駆けていく。

 一つは、十字架。禁断の果実がリンゴではなく、トマトということもあるように、十字架もT字とされた時期などがある。つまりは、墓であり、磔刑である。ピエタをモチーフとしたシーンとか、華恋の一度落下するところなんかがわかりやすい。客の、舞台の恐怖を直視した華恋は一度、舞台の上での死を迎えるが、ひかりがその再生を祈り、落下させる。その際に、ポジションゼロになるのは、このニュアンスだ。そして、最終的に、そこから復活する。

 

・ワイルドスクリーンバロック

 恥ずかしながら、視聴が終わるまで、ワイドスクリーンバロックというジャンルが提唱されていることは知らなかった。まあ、意味はそれで、そのまま、この作品はそれに類するものとして作っています、ということなのだろう。軽妙にして深淵。

 ワイルドとなっているのは、社会に出た後の弱肉強食の世界、野生の世界を示していると考える。自然の摂理なのね。

 

 

 

 ちょっとごめん、アホみたいに長くなりそうなので、分割する。次はレヴューの話など。二回目観た時に気付いたのだけれど、基本的に追う者と追われる者に分かれていて、追う者が勝ち、追われる者が新たな見解を得られるという形になっていると思う。

 双葉が追い、香子が追われる。そして、香子は我儘を受け入れ、待つことを覚える。

 まひるが追い、ひかりが追われる。この立場は、華恋との運命の距離である。そして、ひかりは自分の恐怖に気付く。

 純那が追い、ばななが追われる。大場ななは、自分の執着に、過去の舞台に、一区切りつける。

 クロディーヌが追い、真矢が追われる。真矢は自身の傲慢さに気付かされ、自身をあらわにすることの価値を知る。

 ひかりが追い、華恋が追われる。そして、華恋が自分の胸にあった本当の望みを見つける。

 詳細は次にでも。無限に書くことがあるんだよなぁ。