「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」の感想 パート2

 全体的な断りを入れるのを忘れていた。ゲームや演劇の方まで追えておらず、アニメの分しか観ていないので、読み取りミスっている可能性はかなりあります。

 あと、全体的に深読みオタクになっているかも。脚本の人、そこまで考えていないと思うよ。また、台詞とかがうろ覚えなので、間違っているかも。まあ、ニュアンスは合っていると思うので、心の耳で聞いてくれ。

 

 

 ちょっと、『大きな繰り返し』という表現がわかりにくいな、と思ったので補足。僕はそう考えていないけれど、大場ななが更なる繰り返しの中にいるという解釈においては、TV版やロンド・ロンド・ロンドでの1年の繰り返しとは別に大きな繰り返しがある、という前提に立っていて、

 TV版→(ワイルドスクリーンバロックをやらなかった未来)→(別のオーディションなどの要因における時間の巻き戻し)→ロンド・ロンド・ロンド→劇場版という流れがある仮説のようだ。ゲームにおけるシナリオから示唆されるとの情報もみたが、ゲーム版やっていないのでわからない。特定のシナリオだけでも確認すべきかも。

 大きな繰り返し、とこの記事で言っているのは、これを指している。

 

 

<アバン>

 これはネットで観られるので、細かく見える。

 トマトの破裂。舞台少女としての死。

 ひかりが立つところは、振り子になっていて、時計、否応にも進む時間を示している。華恋が倒れているところは、区切られているので、檻のようなモチーフなのか? と最初は思った。

 テーマの提示。これは別れの舞台。

 砂漠は、何もない華恋の心象? キリンの間に合わないは、観客の気持ち。この作品の終幕と共に、(次の舞台がまた)開幕することも示唆?

 貫いてみせなさいよ、あんたのキラめきで。

 大量にあるポジションゼロは、墓標?

 最後に、華恋が倒れているのが線路であることがわかり、電車の音が鳴り、そのモチーフが示される。ここの前準備があるから、皆殺しのレヴューでアホみたいにぶち上がるんですよね、テンションが。

 まあ、後で確認したら、ロンド・ロンド・ロンドの終わりで電車というモチーフがそもそも示されているし、ワイルドスクリーンバロックという標題もすでに示されていたのだけれど。あんまり気にしていなかったよ……

 

 

<セットアップ>

 皆の進路が提示される。華恋だけが、置いて行かれており、将来は空白のままだ。とはいえ、皆にもそれぞれの課題があり、それは後のレヴューで改善される。

 地味だけれど、ここのテンポが本当に良い。テーマの提示がはっきりしていて、この先、変更もされない。そういうシンプルさもこの作品にはある。その分、レヴューに力が入れられる。

 

 

<皆殺しのレビュー>

 最初、ここで心臓発作を起こして死にそうになった。副交感神経がバグった。

 というのも、その前にオーディションの話が出てきて、テンションを上げさせたところで、最初からあったモチーフの電車に乗っていて、これは何かあるぞ、と期待させたところに、あの音、キリンのコイン、上掛け、あの電車の変形である。テンション上がらないわけないだろ。爆上がりで死ぬかと思ったよ、冗談抜きで。

 

 まず、どうして、皆がすでに死んでいるのかというと、ファンとしての心持で次の舞台(=新国立)に向かっているからだろう。本当ならば、歌劇団に入ったら、劇団員はライバルであり仲間になる存在であるのに、学生気分が抜け切れていない。質問をいっぱい考えている順で、ファン度も高い。つまり、野生の世界に行く覚悟はない。

 そして、純那の『今は敵わない』という諦観にも似た言葉をきっかけとして、大場ななは覚悟したのだろう、ワイルドスクリーンバロックを開催することを。大場ななだけは、舞台の上に立つ者でありながら、舞台を創る裏方でもある。だから、キリンと共に舞台を開催することができるのかな、と思う。

 これはTV版の時から思っていたのだけれど、大場ななさんの配役、完全にラスボスなんだよなぁ。キリンは黒幕、華恋は主人公、ひかりはライバルでありヒロイン、では、大場ななは? ラスボスです。ラスボスとクライマックスで戦うとは限らない。

 

 ワイルドスクリーンバロックの開演です!

 

 無双のスタート。いやぁ、本当に強い。そもそも、最も演劇経験がないことが示唆されているのに、サラブレッドであり、自他共に認める天才に何度も勝っていることからもわかる。でも、刀一本? と疑問に思ったところで……

 本命の武器の登場で二刀流。アホみたいに格好いい、外連味の利きすぎた演出。こんなの、好きにならざるを得ない。

 そして、あっという間に皆殺し。

 言葉だけじゃわからない、というような内容が歌詞に含まれていて、この前のしゃべり過ぎという話と対応してますね。言葉だけじゃわからないから、舞台を用意する。

 これはオーディションではない。一人のトップスタァを決める戦いではない。卒業のための、野生の世界へ行くための準備だ。

 天堂真矢以外は、この舞台、ワイルドスクリーンバロックがわかっていないので、舞台としての台詞を言うことができない。だから、純那も的外れなことを言ってしまうし、クロディーヌの言葉にも返答はなく、しゃべり過ぎだと言われてしまう。

 

 ここで一つ疑問がある。

 なぜ、大場ななはこのままだと、皆が舞台少女としての死を迎える、あるいは、すでに死んでいる、と知っているのか。

 目に入った意見に、また、別の枠での繰り返しをしている、という解釈があった。つまり、TV版もロンド・ロンド・ロンドも大きな繰り返しの一部である、ということだ。あの『オーディション』のさらに未来、ワイルドスクリーンバロックが開催されなかった後で、卒業後、別途オーディションなどがあり、その効果によって、大元(例えば、入学時とか)まで繰り返している、という考えのようだ。その意見を受けて、ロンド・ロンド・ロンドを観返したが、おそらく、それは過剰な仮定であると思われる。少なくとも、TV版も、ロンド・ロンド・ロンドも、どちらも大枠としての二回目のニュアンスはない。確かに、ロンド・ロンド・ロンドで、大場ななの台詞や立ち位置、シーンの描写、歌う部分に差がある。ただ、これはもう立場を隠す必要がなくなったことによる再編集だと思われる。どちらでも、大場ななは、ひかりの登場に驚いているので、片方が演技でなければ、どちらも初見と考えるのが自然だろう。ロンド・ロンド・ロンドが全体を通した2回目(以降)と確定させられる演出は、僕は見つけられなかった。

 単純に、彼女の才能や、考え方、経験から、すでに死んでいるとわかっているとする方が自然に感じられる。彼女が一番、過去に、最も輝いていた時期に囚われているからこそ、現在の、トップスタァになることを半分諦めたような、次の舞台に憧れているような、そんな彼女たちの現状に気付けたのだろう。

 

 

<決起集会>

 ここにも限らないのだが、メイン以外のキャラクターの台詞には、制作陣の意図が色濃く反映されているように思われる。第100回のスタァライト(=TV版)を超えられるか怖いけれど、立ち止まっていられない、とか、観客(とスポンサー)が望むから終わった舞台の次が生まれるとか、色んな衣装を着させてあげたいとか。

 舞台少女心得が裏で流れているのがね……

 今こそ、塔(学校=スタァライト)を降りる時。そして、わたしたちはもう、(次の)舞台の上。

 もう、おやつはおしまいという大場ななの台詞がある。甘い時間=学校はもうおしまい、ということなのだろう。

 クロディーヌの「だから、あいつだけ」みたいな台詞、これはわからん。真矢を観ているので、真矢が舞台の上に立っていたことを指しているのは間違いないのだが、だから、のニュアンスがつかみ切れていない。真矢クロ、二人の世界過ぎて解釈が難しい。今回のレヴューにも言えるけれど……

 「私はみた。再演の果てに、私たちの死を」。ここの再演は、TV版やロンド・ロンド・ロンドでのアレを指している? どこでみたんだ。ちょっと解釈が難しい。

 単純に、今は再演(ロンド・ロンド・ロンド)の果て(次作)なのであって、その更なる先に死しかない、と悟ったことを指しているのか。大枠でのループがあると考えると、そのまま、ワイルドスクリーンバロックをやらない未来(TV版の先、その未来)での死。しかし、そう考えると、今度は、再演の果て、という表現にはならない気がする。果てじゃないじゃん。再演(大きな繰り返し)の中じゃん、と思ってしまう。そうでなければ、たとえば、この(時間軸の)果てに、みたいな表現になるような。だから、やっぱり、大枠の再演はなく、オーディション(ロンド・ロンド・ロンド)の果て、このままの未来だと、という解釈が正しいように思える。みた、というのは単純にその能力ゆえに、その先見性ゆえに、ということだろう。その方が自然な解釈だと思う。

 華恋とひかり以外は、ここでトマトをかじる。舞台少女としての糧を得て、肉体を得て、次の舞台、ワイルドスクリーンバロックの上に立つ。

 

 

<怨みのレヴュー>

 ふたかおは、TV版でも同じくレヴューをしていて、最初はまた痴話喧嘩かと思ったのだけれど、実際には差異があると感じた(まあ、しかし、痴話喧嘩ではある)。

 TV版では、いつも香子の後ろについていたが、対等になりたいと思い、双葉が一人で努力するという話であるのに対し、劇場版では、ずっと傍にいると言っていたのに、自分に付いてきてくれない、という薫子の怨みと、ずっとわがままを聞いてきたのに、自分のわがままを聞いてくれない、という双葉の怨みが衝突しているのかな、と思っている。

 香子は、歌詞やデコトラの横に絶交高速道路(?)みたいなことを書いていて、双葉は爆走(?)高速道路(あ、高速道路と書いてハイウェイと読みます。レヴュー曲がそのまま「わがままハイウェイ」なので)となっているので、読みはおおよそ間違っていないと思う。

 ならば、なぜ、双葉は香子に新国立を受けると言わなかったのか、と問う。その答えに双葉は戸惑う。隣に立ちたいと言っているが、それだけではないことの証明? その後ろめたさからか。単純に、わがまま、なのだろう。それっぽいことを言っているが、実際には双葉が自分でトップに立ちたいと思ったという。香子の隣に立ちたいというのも嘘ではないだろうが、それだけではなくなったので、『わがまま』なのかな。

 あと、これから先もしょっちゅう出てくるけれど、レヴュー曲がサビになって、ガンガン鳴っているところに、照明(ここだとデコトラ)がバリバリ照らされながら、中央に舞台少女がいる構図、ズル過ぎる。人間の本能に訴えかけすぎ。副交感神経が壊れる……(パチンコがこれを利用して射幸心を煽るのもわかる……)

 自分のわがままだと香子もわかっている。しょうもないことだと。清水の舞台になっているのは、その覚悟を示していて、結局は、2人一緒にそこから飛び降りる。

 ちょっとまだわかっていないのは、何で上掛けの紐を切ったのか。タブレットスマホにも見えるし、鏡にも見える。で、これを書いている時に思ったのだけれど、トラックのサイドミラーでは? 大小二つあり、片方が割れていたのは覚えているので。トラックはサイドミラーと、サイドアンダーミラーがある。仮に、サイドミラーなら、すれ違った相手を見るものであって、それが砕けているので、別れた相手を見続けるのではなく、みないことで相手を信用するということかな? これだと解釈も自然だし、デコトラであることの意味もあるかな、と。

 バイクは、香子がわがまま言って、双葉が免許と共に手に入れたので、わがままと献身の象徴。それが香子に渡り、今度は香子が待つ(わがままを受け入れ、献身する)側になった。

 

 

<共演のレヴュー>

 地味にやっていないひかりとまひるのレヴュー。野球から派生して、陸上競技、というかオリンピックへ。色んな競技の衣装着せてるの、完全に制作陣の趣味じゃん!
 というか、全体的にTV版でやっていないレヴューばっかりなんだよね。組み合わせは自然なのに。すでにやっているのは、ふたかおだけっていう。

 ライバルは互いに高め合うというテーマが提示。これはTV版の1話から言われていて、九十九組の皆は、仲間でありライバルであると言われている。

 演出の基盤としては、Jホラー。恐怖がテーマだろう。

 この時点で、ひかりはトマトを食べていないことからわかるように、まだ舞台に立っていない。わたしたちはもう舞台の上、とわかっている(華恋にメッセージを送っている)のに、舞台に立ってはいない、と解釈するのが自然だろう。舞台に立つ、愛城華恋の隣に立つ覚悟が決まっていない。なぜなのか、なにに恐怖しているのか、それはここで気付く。(客としては後でわかる)

 エレベータは、99→100→101と移り、進級を示している。

 まひるの本音……じゃなかった演技によって、ひかりは自身の恐怖に気付き、立ち向かうことができるようになる。

 

 

 おい、ちょっと待て、これでまだ劇中の半分ぐらいだよな? これでも書きたいことを削っているんだが? この先、純那ななと真矢クロ、クライマックスと、書きたいことが無限にあるんだが? 時間もアホみたいに食うので、とりあえず、パート2はこの辺で。レヴュースタァライトのキラめきに囚われてしまったのは、観客だったということか……

 初見最大の謎と思われる、『神の器』に関しても解釈出来てきたので、一応、その辺の補助線も引きたい。まあ、間違っているかもしれないけれど。ゲームとかやってないし。簡単に言うと、序盤に出てくる『神の舞台の道化』との対比だと思っている。